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小説

小説現代 1989年6月号掲載  第50回小説現代新人賞受賞作品
グッバイ・ルビーチューズディ

 落ち葉の朽ちる匂いがした。先週の火曜日には、一歩走るごとに枯れ葉が砕ける音がしていたのに。冬が近づいたのが、闇の中でも涼子にはよくわかる。

 午前三時。涼子は桜田門にでると、皇居を時計回りとは逆に走りだした。そして、いつも思う疑問をその日も思った。・・・・人はなぜ左回りに走るのだろう。多くの男の中心が左に片寄っていて、重心が左にかかり、左回りをするという。それでは涼子たち女の場合の説明にはならない。人は心臓を本能的に守ろうとして、左に回るともいう。この説は正しいような気もする。が、説明として十分というわけではない。でも走りだしてしまえばそんな疑念もすぐに忘れる。

 一周五?の皇居外周コースは信号待ちが一度もない。排気ガスが危険だといわれようと、大都会の真ん中で、五?をいまどき信号待ちで立ち止まらずに走り続けることのできるこのコースは、涼子たちランナーにはありがたいコースなのだ。それになかなか起伏にとんでいて、トレーニングの場としても申し分ない。だからこの皇居外周コースでは二十四時間誰かが走っている。銀座が近いせいだろう夜中には酔客を送り出したに、店を閉めたランナーがやってくる。

 火曜日、というより月曜日の夜は、この時間にしか走れない涼子だが、さすがに走っているランナーの姿はもうない。

 夜遅くに一度降った雨のせいなのだろうか、空気が冷たく湿っていて気持ちよかった。東京駅を中心に点存する銀行の本店は、この時間になってもまだ明かりをともしている。しかしその明かりも、涼子の走っている道路まで落ちてくることはない。信号が赤になって、車の流れが途絶えた。二重橋の玉砂利がひかれた公園の闇は深く、その奥に位置するはずの皇居の闇はさらに深い。大手町を左に回り込み、竹橋の毎日新聞社を通りすぎる。朝刊の積みだしはもう終わったのだろう。トラックの発車のけん噪もなく、いまはひっそりとしている。一?六分のゆったりしたペースで走ってきて、ようやく体が暖まっていた。

北の丸公園と皇居にはさまれた急坂の登りで、涼子はペースを倍にあげた。冬の匂いがいちだんと深まった。スピードをあげると、自分の体調がすぐわかる。前日の疲労が、体のすみずみでぎしぎしいった。

 日曜日の夕方、男がノートをひょいとあげてきた。ちょっと考えてから、涼子が回りのスタッフに気づかれないようにうなずきかえすまで、しばらく間があった。

 ノートをあげる。会いたいと思ったらだまってうなずく。一緒にいるのが辛いと思う日は、合図を無視するか、首を横に振る。なぜ会いたくないか、一緒が辛いのかは説明もしないし、問い質さないことにしようといいだしたのは、たぶん涼子のほうからだった。 

 「ずいぶん一方的な話なんだな」と男がその時いったような気がする。

 「そうじゃないのよ。私は自分が駄目な時にあなたに救ってほしいの。ただ横にいて優しくしてほしいの。そんな時間が持てたら私は元気になってしばらく一人で生きていけるのだから」

 一人娘で育ってきたせいだろうか。幼い頃から自分一人の時間を過ごすほうが好きだった。二十歳を過ぎ、二人一緒の時間を性急にもちたがる男の心理が、涼子にはよく理解できなかった。二日も一緒に暮らしてみると、もう一人でだまって音楽を聞いていたいという思いが、湧きあがってきた。相手の中に入りこめないと感じると同時に、自分の中にも入りこんでほしくなかった。「わがまますぎるのよあなたは。そんなふうに育てたつもりはないのだけれど」といって、涼子の母は死んでいった。

 「それはどのぐらいの期間なの」と男が尋ねた。

 「分からないわ。あなたと一緒にいて心がポカポカになって、その暖かさが一ケ月消えないこともあるし、一週間しかもたないこともある。それは私自身にもわからない」

 「毎日心がさみしくなるということはないのか」

 「毎日さみしくなるといわせたいの」

 「男としてはね。その方が自尊心をくすぐられる」

 「残念ながら私はいわないわ。あなたは自分では気づいていないけれど、なかなか立派な湯タンポなのよ。一度会うとポカポカになって、なかなかさめない、いい湯タンポよ」

 「陶器の湯タンポか」

 「なにそれ」

 「知らないかな、ブリキじゃなく陶器でできてる。重くて見栄えはよくないんだ。でもブリキに比べるとなかなかさめなくてね。毛布にしっかりくるんでおくと三日位暖かい」

 「知らないわよ。だって私、ブリキの湯タンポも使ったことないんだもの」

 「ほんとうかい。子供のころ使っただろう。おふくろが寝る前に、布団の中に入れておいてくれてさ。布団の頭の所は冷たいのに、足元だけはぬくぬくしてる」

 「知らないってば。私とあなたでいくつ離れていると思っているの。十五歳よ。私の子供の頃には、もう湯タンポなんてなかったのよ」

 「じゃこうしよう。俺だけがノートをあげるのじゃなく、君がほんとに湯タンポを必要な時は、君からもノートをあげるということに」

 「いいわ」とその時、いったような気がする。けれど、自分から合図を送ることは一度もなかった。男は週に一度、スタッフには分からないよう、なかなか巧妙に合図を送ってきた。そのサインを一ケ月も無視することもあったし、こまめにうなずくこともあった。

 日曜日の仕事を終えて帰ろうとする涼子に、男が合図を送ってきた。会えば長くなるのがわかっていた。次の週にひかえた東京女子マラソンにそなえて、今週は節制をしておきたかった。

 前年の大会で、涼子は二時間四十八分五二秒、十六位でゴールしていた。日本のランナーの中では、八位だった。同時に四十二・一九五?をコンスタントに、一?当たり四分で走り続けたことになる。実業団のチームに属し、専任のコーチのもとで厳しい練習に明け暮れている他のランナーを押さえて、普通の生活の中で、たった一人の練習で掴んだ記録を、涼子は誇らしく思った。それまで一度も三時間をきったことがなく、三時間四分十一秒というのが、自己最高記録だっただけに嬉しかった。試合後、強化選手に指定するから、陸上連盟に加入するようにという話がすぐにきた。涼子はその申し出を頑なに断った。自分の趣味で走っているのに、合宿に参加させられたり、与えられた練習メニューをこなしていくのが、涼子には耐えられなかった。「欲がないんだな。いい素質をしているのに」といって、陸連の幹部はあきらめた。彼らのために走る気にはとてもなれなかった。

 しかし、今年は二時間四十五分をきることを密かに狙っていた。それは日本の女子のトップ十に入る記録だ。涼子も東京女子マラソンが終わった一ケ月後には、三十歳になる。

記録を狙うとすると、今年が最後のような気がした。

 大会まで残り十日あまりになって、急に涼子の緊張が高まった。フルマラソンにチャレンジする時はいつも異常に緊張するのだが、今回は特にひどいようだった。一?あたり二分のペースが止まらず、とうとう心臓マヒで死んでしまうという、わけのわからない夢に毎日うなされていた。

 仕事でもここ二、三日ミスをよくした。そのミスに気づいて、何度も男がおやっという顔をした。男がノートをあげてきた時、マラソンのことなどこの男にはやっぱりわかっていないと思い、がっかりした。合図を無視して帰ろうとしたが、このプレッシャーからのがれるために、一緒に過ごすのも悪くないと思った。

 男とマラソンの話をするわけでもない。なぜミスが続くのかと、男が聞いてくるわけでもない。三年以上にわたるつきあいで、涼子の領域に立ち入らないことに、男も慣れていた。グラスを傾け、酔い、じゃれあい、肌をあわせていると、次の週の大会のことを忘れて、涼子は少し幸せな気分になった。終わって、男の手がゆっくりと髪を撫でているあいだに、眠りにおちた。Yシャツを着替えに帰るといって、慌てて男が起きだしたのは、すでに三時近かった。男の腕の中で二時間も眠っていたのだろうか。目覚めた時には久しぶりに熟睡した気がした。男が帰って、もう一度眠ろうとしたが、目が冴えてなかなか眠れなかった。頭の中でいつまでもレースの組み立てをしている。どう走ろうか、ああでもないこうでもないと悩んでいたら、結局六時をまわってしまった。

 スピードをあげると、まだ体内に前日の疲労がたまっているのがよくわる。涼子は喘ぎ、息をきらした。代官町の高速道路の入り口の灯が、ぼうっと浮かんでいる。道は狭く、冬の匂いが深くなった。闇は人間に嗅覚と聴覚があることを、思いださせてくれる。

 「夜中に皇居を走ってるの」というと、多くの女たちがひどく驚いた。「まあ危なくない。怖くない」というのが、彼女たちの共通した質問だった。何時になっても灯が消えることのない、この大都会の真ん中にちゃんと闇がある。走りながら、襲われたらどうしようと、五感を集中できる時間が涼子は好きだった。自分が少し動物に近づいた気がする。

千鳥ケ淵を回ったところで、いちょうの腐った匂いがして、吐きそうになった。調子はよくない。一?三分四十五秒にあげると、体はとたんにノッキングをおこした。先程から四分ペースに落としたり、三分四十五秒ペースにあげたり、走りが一定しない。長年走っていると時計をみなくても、自分が今どのぐらいのスピードで走っているのかよくわかる。

 涼子ははじめ、後ろからやってくるランナーになかなか気づかなかった。

 規則正しい足音と息づかいが、背後から不意に襲い、一瞬たじろいだ。すぐにランナーだとわかり安心した。やがて男が並ぶ。ぎこちない走りをしていた涼子は、その男の息づかいにあわせて、呼吸をしてみた。しばらく男のすぐ後ろを走ってみる。半蔵門から桜田門の下りになったこともあって、呼吸が楽になった。今日は少しいい走りをしておきたかった。でも、この体調ではとても自信がなかった。このまま飛ばしたら、十?も走らないうちに歩きだしそうだ。フルマラソンの五日前に途中で投げ出すような走りをしてしまうと、当日はとても不安で走れるものではない。少しこの男のペースについていってみよう。

前をいくランナーの歩幅に涼子はぴったりと、ペースをあわせた。

 涼子がペースをあわせはじめたのに気づいて、男は驚いたようだった。一瞬振り返った。

そして振りほどこうとペースをあげる。遅れまいと必死につく。今度は男の息が荒た。

男がペースをもとにもどす。ほっとした。あれ以上突き放されていたら、ついていけなかった。規則正しい二人の足音と、息づかいだけが聞こえる。前を走る男の長い手足はバランスよく流れ、走りに気負ったところがない。どんな男なのだろう。少しスピードをあげて男の横についた。大手町の直線コース。信号が青に変わり、車の流れがしばらく続く。

ヘッドライトで男の横顔が浮きぼりになった。走りこんで落としたのだろうか、頬に肉がない。男がちらっと涼子をみやったので、慌てて一歩さがった。男についていくというテーマがようやくみつかり、走りにやっと余裕がうまれた。

 一言も口を聞くこともなく、ぴったりと四、五歩の距離をとったままで、皇居を二周した。十?、三十三分というハイペースだった。

 半蔵門が再びみえてきて、その日の予定の十五?をこなしたことになる。はじめはアップアップだったが、男の出現でようやくいい走りができた。あと五日後にひかえた、東京女子マラソンもなんとかなりそうな気がした。半蔵門のところで、涼子は男の先へでて、回りこむと、ぺこりと頭をさげながらいった。

 「今日は調子が悪くって走れなかったのに、ペースを作ってくれてどうもありがとう。じゃおやすみなさい」

 新宿通りをあがってきた車のライトに照らされて、男がぎこちなさそうに笑った。そしてそのまま、桜田門の下りを駆けおりていった。初対面の人に気軽に話かけてしまったかなと、涼子は一瞬くやんだ。明らかに男は涼子より十歳は若かったはずだ。まぁいいか、こんな夜中にもう二度と会うはずはないだろう。そういう些細なことにくよくよするのが私の一番いけないところなんだからと思いながら、麹町の自分のマンションのほうへゆっくりと走って帰った。バスタブいっぱいにお湯を張り手足を伸ばすと、無理をして走り終えた筋肉が気持ちいい。昨夜、男が咬んだ乳房のところがアザになっていて、涼子は一人頬を赤らめた。


十一月中旬の東京女子マラソンは途中から冷たい雨になった。二時間四十五分だけはなんとかきりたいという想いで、涼子は必死に走った。二十?を、一時間十五分三十三秒の 三位で通過。一?あたり三分四十五秒だった。後半の二十?を前半より十五分もゆっくり走ったとしても、目標の四十五分をなんとか切れそうだ。

 しかし、三十?を過ぎたところでペースがガタンと落ちた。どんどん抜かれる。ペースをあげようと両腕の振りを大きくしてみても、足はいっこうに前へ進まない。というより、「もうどうでもいいや」という気持ちが生まれている。どうでもいいのが、四十五分を切ることなのか、湯タンポの男のことなのか、自分でもよくわからない。

 「私たちの家庭を邪魔するのはもうやめて欲しい」ときりだしてきた電話の相手が誰なのか、涼子はすぐにわからなかった。レース前日の夜のことだった。

 やがて、女が湯タンポの妻だとわかる。「うちの人をしばらないで欲しい」とも相手はいった。男がどんないいわけをしたのか知らない。男の家庭を邪魔している気は、涼子にすこしもなかった。でも、二人があんなふうに会うことが問題だというのなら、仕方がないと思う。電話の向こうで、少し甲高い尖った声がいつまでも続いていた。受話器を耳から離し、相手の話が終わるのをひたすら待った。レースのペース配分が気になった。三十五?過ぎをどんなふうに走ろうか。

 「ええ、いったいどうなのよ」と相手の声がさらに尖った。「ええ、がんばります」と涼子は、とんちんかんな答えをしていた。乱暴に相手から電話が切れた。

 大会の前夜、指定されたゼッケンをレース用タンクトップに、安全ピンでゆっくりと止めていく。そんな時の緊張感が涼子は好きだった。しかしいつまでたっても、レースに向かって気分は集中しない。安全ピンの針を指にさし、涼子は小さな声をあげた。

 再び「もうどうでもいいや」と思う。ペースはそのまま、ずるずると落ちていった。

 二時間五十六分でゴールした時には、雨で体がひどく冷えきっていた。走り終えた安堵感からか、突然ふくらはぎがけいれんしだした。涼子はゴールのアンツーカーに、そのまま倒れてしまった。レースの実況放送はまだやっているのだろうか。倒れ苦しんでいる姿を、湯タンポの妻にみられたくなかった。

 フルマラソンを走り終えると、いつもは爽快感だけが残るのに、その日は徒労感しか残らなかった。レースの疲れは、何日たってもなかなかとれなかった。肉体よりも精神的な疲れが、いつまでも残った。なにをするのもおっくうだった。走る気にさえならない。三十歳までに二時間四十五分をきるという、走るテーマがもうみつからないように思った。

永遠に走れないかもしれない・・・・そんな不安が襲う。不安定な気持ちを忘れたかった。レースから三日目。自分からはじめて、湯タンポの男に向かって、涼子はノートを持ちあげてみた。男はまったくその仕種に気づかなかったように、席をたった。


涼子は大会の日から、一週間まったく走らなかった。その間に毎日の疲労が、体の奥深くに沈殿した。体が走って欲しいといいだしている。そんな体の生理の叫びがうれしかった。もう走れないのかもしれないと考えていた不安は、肉体のほうから消え去った。

 火曜日の午前三時、いつものように涼子は皇居を左に回った。

 ひさしぶりの走りに体がぎこちない。足を一歩前へだすたびに、冷えきった冬の闇に、一週間の疲労が溶けだしていくのがよくわかる。やわらかい爽快感。走っていてよかった。もしこんなふうに自分自身を発散する方法を知らなかったら、私は狂っていたかもしれないと思う。

 頭の中がカラッポになってきた。レースの屈辱感も、湯タンポの男のことも、仕事のこともすべて忘れていた。皇居を一周して再び大手町の直線に入った時、涼子の頭の上に白く光芒する輪が浮かんできた。なにも考えられない気持ちよさ。ただ体を前にだすだけの爽快感。ランニングハイ。走るだけでランナーたちは麻薬を飲んだように、ハイな状態にしばしば陥ることができる。肉体的苦痛はまったくなく、どこまでも走り続けられるような気がする。アメリカでは、そんな状態のランナーの体内からその成分を抽出して結晶化し、危険性のないドラッグを開発しようという、研究さえ進められているのだという。涼子は幸せだった。この一週間の不安定な気持ちが、嘘のようだった。私はこの街でまだ一人で生きていけると思いながら、竹橋をまわった。

 後ろから足音が近づいてきているのにも、気がつかなかった。

 涼子の横に誰かがぴったりとつき、併走しだした。気が散った。今日は一人で、ゆったりと走りたかった。少しスピードをあげる。ついてくる。またスピードをあげた。男が涼子の前にでた。レースの前に出会った、あの男だった。男がスピードをあげる。涼子は意識してスピードを落とした。距離が離れた。男がスピードを落とす。距離が縮まる。呼吸がからまった。涼子は突然立ち止まると、いまきたコースをとってかえし、皇居を右回りに走った。今日は誰にも走りを邪魔されたくなかった。男は一瞬立ち止まったみたいだったが、追いかけてはこなかった。涼子は先程以上にスピードをあげ、大手町の直線を走った。桜田門の闇の向こうから、あの男がやってきた。

 「探してた」と男が擦れ違いざま、喘ぎながらいった。呼吸が乱れて大声になった。男のはぁはぁという、呼吸音が遠ざかる。

 その日涼子は二十?を走り、男と三度擦れ違った。二度目からは、男もなにもいわなかった。走り終わった時、体がずいぶん軽くなっていた。

 翌週、涼子は前を走る男の足音を聞いた。あの男が走っていると思うと、ちょっと心がはずんだ。スピードをあげた。伴走する。夜光灯の中に、まったく違う男の姿が浮かんだ。太った男。なぜかがっかりする。そう、涼子はあの男を無意識のうちに探していた。

 漆黒の冬の闇を走る男たちというのは、いったい何者なのだろう。なぜ真夜中に走るのだろう。昼間に皇居を走っていても、周りのランナーの人生を考えるなどということは決してないのに、この時間に走っている人のことは、なぜ気になってしまうのだろう。この太った男の生活を覗いてみたい誘惑にかられる。そして思う。この男も私の生活を知ろうとしているのかもしれない。そんなことはごめんだ。スピードをあげた。太った男との間があっというまに離れた。

 前を誰かが走っている気配がする。あの男だろうか。探している自分がいる。

 探してた、探してる。お互いがお互いの存在を気にしている。きっとそれが進むと、それ以上のことを知りたくなるのだろう。前をいく男に追いつく。併走。あの男だった。

 男がちらっと涼子をみた。そしてスピードをあげた。この前の夜と違い、涼子の息は乱れなかった。男がいちだんとスピードをあげた。ついていく。男が逃げる。追走。二人は喘ぎ、軋み、苦しむ。冷気の中で汗が吹き出す。男のうっすらとした汗の匂いを敏感にかぎとる。闇の中で五感が研ぎすまされていく・・・・そんな動物に少し近づいていく感じが涼子は好きだった。あっという間に、二人で太った男を追い抜いた。また闇。

 なんだか黙っているのが耐えられなかった。「はやいのね」と涼子はいった。突然だったからだろうか、男は黙っている。コーナーでスピードをあげながら聞いた。

 「選手?」

 「ううん」

 ようやく男が答えてくれる。

 「はやいわ」

 「おたくこそ」

 「私はダメ。フルで二時間四十五分がきれない」

 「きれるさ、きっと」

 スピードに対して声をだすため、自然と大声になる。

 「じゃ、コーチになって」

 なんの打算もなく、涼子はおもわずいってしまった。

 「ついてこいよ」といって、男はさらにスピードをあげた。涼子は必死についていった。喘ぎながら、このトレーニングを少し続けてみようと思う。自分一人では限界点に入った時、苦しさでそれ以上のスピードをひきだせないでいた。男の出現で、四十五分の壁を破れるのなら、このスピードについていき自分の能力をもう少しひきだしてみたかった。

 男がひっぱる。必死についていく。喘ぐ。軋む。二人は深夜に獲物を追って大草原を駆ける獣だった。闇の中で二匹がお互いの存在を主張し、牙をむきだしにして走った。

 半蔵門に出た。涼子がスピードを落とす。二人で四周、二十?を走ったことになる。

 「ありがとう。いい練習になったわ」というと、涼子は半蔵門を渡り、新宿通りに入った。麹町の交差点を右に曲がりながら、手をぐるぐる回す。走り終わった充足感に包まれ気持ちよかった。日本テレビの横の小路を曲がった時、誰かついてくる気がした。振り返っても誰もいなかった。マンションの入り口の灯が浮かんでいる。セキュリティーカードをポケットからとりだす。自動ドアがすっと開き、なんだかほっとした。エレベーターに乗り込む時に、また人の影をみたように思う。部屋のある十一階までいったんあがったが、影の存在が気になり、再びエレベーターにのりこんだ。ロイヤル麹町ハイムと書かれた、ぎょうぎょうしい金字の刻印の看板が、ぼうっと闇に浮いているだけで、誰もいなかった。


その日から、週に一度の午前三時のトレーニングがはじまった。十二月も中旬を過ぎた火曜日は、冷たい雨になった。仕事を終えると、今夜は走るのが嫌だなと思った。雨の日にまで、深夜に走るのを義務づけたくなかった。同時に、男に会うためにこんな冷たい雨の中をわざわざ走りにいくと思われたくなかった。誰に思われるのだろう。二人のことを知っているのは誰もいない。結局、自分の距離が少し男に近づいているのに気がつく。忙しくてここ二日走っていないし、体が走りたがっていると自分にいいきかせ、冷雨の中を走りだした。

 でも、体が暖まってくると、走りはじめのいいわけなどもう必要なかった。冷たい雨が気持ちよかった。さすがにこの雨では誰も走っていなかった。竹橋を過ぎる。北の丸公園の登りを、喘ぎながらスピードをあげ登る。涼子は耳をそばだてた。強い雨音の奥から、男の足音が追ってくるのを待っていた。その足音が確実に聞こえてきた。涼子はスピードをいちだんとあげた。

 半蔵門の下り坂でようやく男が涼子に追いついた。ふりしきる雨の中を男がひっぱる。

必死についていく涼子の走りは、その日かなり安定していた。先週の限界点が、今週はもう苦にはならなかった。男はただ涼子をひっぱる。スピードがあがっているにもかかわらず、走りが安定したので、涼子は息をはずませながら男に聞いた。

 「なぜこんな時間に走っているの」

 聞こえなかったのだろうか。

 「仕事は」

男の沈黙に耐えきれず、再び聞いた。それでも男は答えず、いちだんとスピードをあげた。涼子にとって、そのスピードが新しい限界点になった。必死について走ることが精一杯で、もうそれ以上話かける余裕もなかった。涼子の呼吸が乱れた。男が突然喘ぐ。両手の振りをおもいきり大きくして、必死についていった。闇の中で涼子と男の息が絡み、二人のあげる足音は強い雨音に消された。

 皇居を三周し、再び竹橋にさしかかると、男が突然立ち止まった。「ついてこいよ」というと、竹橋の信号を渡った。道路の真ん中で振り返ると、再び「こいよ」といった。

 男がなにをいいだしたのか、涼子ははじめよくわからなかった。そして、男が誘っているのだと、ようやく理解した。「こいよ」というと、男はそのまま信号をわたり、九段下の方へ走りだした。男が闇の中に消えるのをただみつめていた。

 涼子は一九?にあたる北の丸公園の急坂を登った。男が追いかけてこないか、何度も振り返ってみた。けれど男は追いかけてこなかった。

 どうしてついていかなかったのだろう。男の誘いが突然だったからだろうか。いや、二人はナを走りながら、息を絡ませ、喘ぎ、お互いのセックスを十分に意識していたはずだ。すぐについていく軽い女に、みられたくなかったからだろうか。もうそんな駆け引きをする年でもなかった。

 湯タンポの男はあの電話以来、ノートをあげてこない。それは別にいっこうにかまわなかった。あの男に涼子は、何も要求してはいないのだ。心にぽっかりあいた空洞を、埋めたい日に埋めてもらえれば、それでよかった。愛しているとか、愛していないとか、支配されたいとか、支配したいという問題ではなかった。二十歳の頃から、そんな想いは希薄だった。たとえば少しうきうきした気分で、誰かと旅にでる。きまって二日目にはもう、一人でじっとしていたいという想いがわきおこった。旅先から一人で帰ってしまう。そんな涼子の考え方が、なかなか分かってもらえず、離れていった男も多かった。誰かを真剣に愛したことがないせいだろうか。湯タンポの男との間が三年以上も続いたのは、お互いが邪魔にならない程度に、お互いの時間を共有していたからだろう。だから妻からの電話にも、罪の意識をいだかずにいられた。ただ、妻のクレームを気にしてしまう男の小ささが、涼子の心の中で刺となり、ささくれだっていた。

 そして思う。走りの男に近づくと危険だ。都会の男たちがとうに捨て去ってしまた、危険な匂いを、男は走りながらも執拗に発散していた。もう一度、「こいよ」といわれたらどうするだろう。その時になってみなければ分からないと思う。

 けれど自分の生活を乱されず、相手の暮らしにもはいりこまない、深夜だけの出会いも悪くないかもしれない。

 「アブナイ、アブナイ」と涼子は走りながらつぶやいた。

 「アブナイ三十」と今度は声をだしていった。来週の火曜日には、涼子は三十歳をむかえようとしていた。そしてその年も、もう終わろうとしていた。


その日は夕方から、みぞれになった。仕事納めの日をすぐにひかえて、街はいつまでもあわただしい雰囲気を残していた。年内に仕事をかたづけようというのだろう、深夜を過ぎたというのに、丸ノ内のビル街のどの窓にもいつまでも明かりがついている。しかしそのけん噪も、通りをひとつ隔てた皇居外周の道までは届かない。みぞれが雪に変わって、ランナーの姿も午後十時を過ぎるととだえてしまった。涼子はいつものとおり、日比谷通 りから桜田門に入ると、皇居を走りだした。この雪の中を男は走りにやってくるだろうか。誘いにのらなかった気まずさで、男がもうあらわれなかったら困るなと思った。私のよきコーチなのだから。

 半蔵門を過ぎたあたりで、後ろから足音がいつものように近づいてきた。

 男がスピードをあげる。ついていく。なんども限界点を超えることで、走りの苦痛が和らいでいくのだろうか。涼子は前を走る男のスピードも、ゆさぶりもあまり気にならず、安定して走られる自分がうれしかった。そして思う。もう一度二時間四十五分にむかって走ってみよう。年があけると、二月の中旬に勝田マラソンがある。そこで四十五分を切ってみよう。このコーチの出現が、自分の走りにどう影響するのか、確かめておきたかった。男がいちだんとスピードをあげた。必死でそれについていった。男の苦しそうな息づかいが、涼子を刺激する。この男のスピードに、いま耐えられなければ、私はだめだと思う。

涼子が喘ぐ。その喘ぎを、男はもっと聞いてみたいと思うのだろうか、さらにスピードをあげる。男の息がはずみだす。横を駆けぬける車のライトに、瞬間雪の破片が舞い、再び闇だけが二人を包む。二人で五周を駆けた。竹橋にかかった時、男は立ち止まると、「こいよ」といった。

 そのまま竹橋の信号を渡ると、男は後ろを振り返ることはなかった。

 涼子はためらうことなく、男の後を追った。息と息が絡みあう走りの時から、すでに男に抱かれている錯覚に十分陥っていた。そして、この男のことなら、なんでも知りたいとも思った。湯タンポの男に自分から抱いたことのない欲望を、この男は走っているだけで抱かせた。

 男は靖国通りにでると、専修大学前の交差点を直進した。

 「お互いに知らないままにしようぜ。名前も顔も、皇居と同じみんな真っ暗に」

 突然、男が走りながらいった。涼子はだまっていた。

 「いいかな」と男。

 「なにをしてる。どうして走ってる。なんでこんな時間に。そんな質問はみんな無しだ。約束できるか。できないんなら、このまま帰んな」

 なんて奴なんだろう、人を誘っておいて。約束できないんなら帰んなだって。若いくせに、なにこの口のききかた。涼子は少し気色ばった。でも男のいっている提案は悪くない。湯タンポの男のように、すべてをひきずっているより、お互いが入りこまなくてすむ分いいと思う。

 「どうなんだよ。約束できるのかい。できないんだったらAコーチもやめるぜ」

 「いいわ。なにも聞かない。そのかわり部屋にいっても、電気もつけないのよ」

 雪の舞う男の背中に向かっていった。


男は涼子の声を無視するように、だまって細い小路を曲がった。皇居から十分も離れていない大都会の真ん中にこんな街並がと思うくらい、小さな家々が肩をよせあうようにたたずんでいた。男がアパートの階段を登る。涼子はちょっと躊躇したが、勢いよく男の後に続いて登った。小路には街灯もなく、真っ暗だった。印刷所が近いのだろうか、印刷インキの匂いと、真冬だというのに、どぶの匂いがする。

 「入れよ」

 男は手探りで、玄関の間に空間をつくる。

 「冷たかった」

 わざと大きな声でいうと、涼子はふぅとため息をついた。

 男が瞬間湯沸かし器の予備だねをつける。そこだけぼうと灯がつき、男の横顔が浮かぶ。目がなれてきて、湯沸かし器の小さな灯でも、部屋の中になにがあるかわかる。ベッド。壁にかかったランニングウェア二着。ダンボールの箱がふたつ。それがすべてだった。玄関の横の小さなキッチンには、鍋、かまの類さえない。

 勢いよくお湯が流れる音がしている。「使えよ」といって、男が熱いタオルをほうり投げてきた。雪で凍りついた髪を拭きながら、カード式のセキュリティーシステムの完備した自分のマンションと、この男の部屋の距離を計る。男がタオルで頭を無造作に拭いている。そして、ランニングウェアを脱ぎ、身体を拭きだした。細いが、よく鍛えあげられたしなるような体が、目の前にあった。

 「拭けよ。風邪をひく」

 「私はいいわ。それより、ビールを飲ませて」

 「アルコールはやんないんだ、なにもない」というと男は襲いかかってきた。

 「ちょっとまって、汗を拭くから」という声を無視して、男の舌が涼子の身体をう。

走ったままの、汗の身体を舐められるのが、はじめは耐えられなかった。しかし、全身から走りの汗をぬぐいさられた頃、涼子に男を抗うものはなかった。湯タンポの男や、他の男の時に味わったことのない、快感が襲った。はじめての体位に身をまかせた。闇の中でなにをしてもいい、許されるという気分が涼子を高揚させた。吠えていた。自分がまた動物に近づいたと思った。隣の住人だろうか、壁をどんどんと大きく叩く音がする。涼子の声がなおあがった。終わると、男は涼子のランニングウェアを無造作に投げてきた。雪で濡れたウェアを着こむと、思っていた以上に冷たかった。

 男の部屋をでると、ジョギングで再び竹橋を渡り北の丸公園の坂を登った。

 私は今日、三十歳の誕生日なのよ。抱きながら、きれいだといって、ほめてくれてもいいじゃない。優しい言葉をかけてくれてもいいじゃない。涼子の頬を涙がつたった。急坂をスピードをつけて、息をはずませながら登ぼる。はじめて味わう快感に、つさっきまであんなに酔っていたというのに、もう心はトレーニングウェア以上に冷えきっていた。

自分のマンションにたどりつき、涼子はほっとした。走ってわずか十五分のところにある、男と自分の距離の遠さを思った。


年があけた火曜日。どうしたのだろう、男の足音が聞こえなかった。同じ時間に走っていないのだろうか。走っていたとしても、それぞれが同じスピードで、竹橋と桜田門から同時に走りだしていたならば、永遠に出会うことはない。男の足音が聞こえないので、涼子は少しほっとした。が同時に、その日の走りはいっこうに身が入らなかった。

 二週続けて男の足音は聞こえなかった。とうとう次の日、涼子は朝から男のアパートの前に立ってしまった。でも一日待っても、男はあらわれなかった。どこに消えてしまったのだろう。

 男の足音を再び聞いた時、救われた気がした。どこへいっていたの、なにをしていたのと聞きたいことがたくさんあった。なぜこの男のことが、こんなに気になってしまうのだろう。もう勝田マラソンまで一ケ月しかないのだ。二時間四十五分を切るためには、この男のことより、走りに集中しないといけないのに。

 男がリードする。疾走。このスピードが持続できれば、来月こそ四十五分を切れるかもしれない。男の息が乱れている。苦しんでいる。涼子の走りの方が安定していた。この二週間に、なにがあったのだろう。こんなに不安定な男の走りを、涼子ははじめてみた。二十?にあたる竹橋のところで、男は立ち止まると「こいよ」とその日はじめて口をきいた。

 闇の中で男が涼子をつきあげる。涼子が高く叫ぶ。血の匂いがする。手探りで男の顔を探る。瞼のうえが、ぱっくりと割れている。その傷口に唇をあてる。舌を鋭くとがらせ、傷口にもぐりこませた。男がうめいた。血を吸いあげる。獣の匂いが、涼子の口のまわりからたちのぼった。

 「どうしたのこの傷。大丈夫」

 「なにもきかない約束だろう」

 男は涼子を裏返し、後ろから入ってきた。快感に酔いながら、怖いと思う。この男はいったいなにものなのだろう。大都会に住む一匹の野良犬。涼子の声があがる。叫ぶ。吠える。隣の壁がなっている。

 終わって、涼子の手が男の頬を這う。ざらりとした感覚。どの男ももっていなかった違和感。「どこにいっていたの」声が甘くなるのが自分でもわかった。ただ優しく包み込んであげたかった。

 「誰かの声に似てる」と返事のかわりに男がいって、涼子の髪をすくった。男が涼子に示してくれるはじめての優しさだった。涼子は少したじろいだ。「他人の空似よ」といって、慌てて男から離れた。

 マンションに戻ると、熱いシャワーをあびながら、ストレッチングをした。走り終わった背中の筋肉がゆったりと伸びて、やっと気持ちがおちついた。無理に足を開かされたせいだろうか、痛んだことのないふとももの筋が、ストレッチングで痛んだ。どんなに走りこんでいても、けっして鍛えられない筋があることを知る。何度も何度もその筋にシャワーをかけながら、あの男はいったい何者なのだろうと思う。知りたい。知ろうと涼子は決心した。

 翌日、涼子は十一時に目覚めると、昼食兼用の遅い朝食をすませた。食欲はなかったが、男のアパートを一日張るとなると、いつ食事ができるかわからない。とにかく食べておこうと、無理に食べる。アパートへ向かう。男がすでにアパートをでてしまっていないか不安だったが、夜の仕事をしているはずだという確信があった。十二時にアパートの前の陰に立った。

 一時に男があらわれた。明るい陽差しの中でみる男は、涼子が考えていた以上に若い顔をしていた。スポーツ刈りに刈りこんだ短いヘアースタイルが、男を清潔にみせていた。若いのに他人を絶対に寄せつけないような、きぜんとしたすがすがしさが匂っている。昨夜、涼子が吸った傷口には、絆創膏がはられていた。寒いのに男はトレーニングウェアの上下だけを着て、水道橋の方に歩いていく。男の前へ平然とでていき、声をかけたい衝動にかられる。

 駅前で男が振り返った気がして、涼子は慌てて煙草屋の前に立った。「煙草を」「なににしましょうか」ときかれた時、煙草を吸わない涼子はとまどった。「えーえと」といいよどんでいるうちに、時間が過ぎる。男の行方を追うと、切符を買い終わり、改札口に向かうところだ。慌てて涼子は駆けだした。「お客さん」という煙草屋の声が聞こえる。振り返ると、ハンドバッグを忘れていた。

 自動販売機に並んで順番を待つ暇がない。「ごめんなさい」と横からコインを投げ入れる。「なんだこの野郎」といって、順を待っていた男が怒っている。落ちてきた切符を掴むと改札口を走った。階段を中ほどまで登ったところで、電車のでていく音がした。下り電車だった。男が上り電車を待っているとしたらみつかるはずだ。階段を祈るように登る。上り電車を待つ列に男はいなかった。男がでかけたのは新宿方面とだけわかった。

いったんマンションに帰ると、何時になってもいいように、涼子はあるだけのものを着込んだ。午後四時、再び男のアパートの前に立った。買い物かごをさげた女性が不思議そうに涼子をみていく。おもわず下をみつめながら、私はなにをしているのだろうと思う。買い物かごの女性が、男の住むアパートの階段を登る。いつも壁を叩く女だと最初に眼があったときに思った。女の直感。ということは、相手も深夜の声がこの私だと気づいたはずだ。男の部屋は一番北側。二階には三部屋が並んでいて、女は真ん中の部屋に消えていく。そして台所ごしにこちらを窺う影がある。涼子は少しアパートの周りを歩いてみる。だがいつ男が帰ってくるか気が気ではなく、ばったり顔をあわせるのも気まずいので、すぐにアパートの死角になった裏道にたたずむ。冷気がしんしんとあがってきて、涼子は何度も足踏みをした。

 男は八時にアパートに帰ってきた。そして再び九時にアパートをでた。階段を下りると、そのままジョギングをはじめた。慌てて涼子は後を追い駆けた。着ぶくれで、体が思うように動かない。このまま長時間走られると困るな、また見失ってしまうと心配していると、男は竹橋の毎日新聞社の前で立ち止まった。そして、新聞社のビルの裏手にまわりこんだ。地方へ新聞を発送するトラックが、何台も並んでいる。騒音の中、刷り上がった新聞が九時半ごろからベルトコンベアに乗ってではじめてくる。新聞の束をとりだしては、男はトラックに運びこんでいる。

 男が深夜に走る理由が、やっと解る。九時半から一番遠い地方版の発送がはじまり、都内版の最終便がでるのが、きっと三時なのだろう。仕事が終わると、男はそのまま竹橋から深夜のランニングにでかける。火曜日は仕事が三時に終わり、それから走りはじめる涼子との出会いがこうしてうまれたわけだ。前に二週間会えなかったのは、きっと何か事件が重なり、新聞の最終発送便が遅れたのだろう。最近の大きな事件ってなんだったっけ。

思いだせない。帰ったらチェックしてみよう。では、あの傷はなんだろう。結局、男はたんに怒れる若者なのだろうか。もてあました自分のエネルギーを街のどこかでぶつけている、そこらのちんぴらなのだろうか。なんだか複雑にからみあった「走る男」というクロスワードパズルの一片が解けただけで、男の実態はやはりつかめない。けれど、男が三時に走る理由がようやくわかり、涼子は少しほっとした。

 竹橋からタクシーをつかまえると、スチームの暖かさにようやく人心地がついた。そして、いったい自分は一日、なにをしていたのだろうと思う。あの男が深夜に走るからといって、なぜ私はその理由を探るのだろう。そのわけが全部分かったとしても、二人の間が変わるわけでもないのに。

 麹町でタクシーをおりると、プチトマトというイタリアンレストランに入った。朝、食べてから、なにも口にしていなかった。スパゲティの茹であがった匂いにむせる。不意にたった一人のさみしさがこみあげてくる。相手の都合や時間にあわせる煩わしさよりも、一人でのんびり過ごしているほうが好きな涼子にしてはめずらしい感情だった。周りをゆっくり見回した。遅い時間だというのに、レストランは女性客でにぎわっていた。涼子と同い年ぐらいだろうか、三十歳前後のグループが四組ほどいて、嬌声をあげている。ワインを飲み、パスタを食べながらも、彼女たちがけっして満足していないのが、涼子にはよくわかる。彼女たちのテーブルにいき、「本当にあなたたちは友達なの」と聞きたい衝動にかられた。家庭という場を作れず、だからといって、一人、部屋でじっとしていられない女同士が、お互いの傷を忘れるために、群れている。あんなふうになりたくないと思うと、ほとんどスパゲティを口にせず店をでた。自分が今日一日なにをしようとしていたのか、自分でもよくわからなかった。部屋に帰ると、二週間前からの新聞を持ちだし、ブランディーを飲みながら新聞記事を調べた。しかし、最終発送便が遅れるほどの大事件は、このところ起きていなかった。酔いが急激にまわってきた。

 「どうして、あんな時間に走っているの。あなたは誰なの。なにをしてるの。どこで生まれたの。いくつよ。なぜ走るの。教えてよ。教えてくれたっていいじゃない」


午後から企画会議だけという日に、午前中をつぶして、涼子は部屋のすみずみをかたずけた。さっぱりした気持ちでロビーのマットの上に立ち、自動ドアが開くのを待っていた。

その時、門の陰で、一瞬、人が動いた。走り方が似ていると思った。地下鉄の麹町の駅でも、後をつけられているような気がした。誰かが自分をみている。たぶん、あの男なのだろう。私が男を探ったように、男も私を探っている。涼子は慌てて地下鉄の階段を駆け登ると、やってきたタクシーに飛び乗った。おりると、男の影は消えていた。なぜ、人は人のことを知りたいのだろう。その人に関心があるからだろうか。その人に魅せられるからだろうか。そうではないと涼子は思う。相手が何者であるかわからない怖さから逃れるために、人は人のことを知りたがるのだろう。私とあの男はいったいなにをしようとしているのだろう。誰も知らない時間を共有するだけで、お互いが傷つきあいすぎているのかもしれない。知られる前に、男のことを知っておきたかった。翌日、涼子は腹痛だといって、休みをとった。

 男が部屋からでてくる。水道橋に向かう。今日こそは見失うまいと、先に切符を買っておいた。男が新宿で乗り換えた。急いでいる。人込みで見失わないようにと、涼子は必死だった。男と太った男がぶつかった。というより、明らかに太った男がぶつかっていった。

太った男の胴間声が、新宿駅のコンコースに響きわたった。瞬間、太った男の腕がしなった。走る男は少しも動かなかった。頭をちょっと後ろにそらした。太った男の腕が空を切り、体がそのままたたらを踏んだ。そばにいた顔に傷のある男が襲いかかった。誰かが金切り声をあげた。傷の男のくりだすパンチは、走る男にひとつも届かなかった。傷の男はバランスを崩し、自分から壁にぶつかっていった。警察官がやってきた。涼子の周りは、野次馬でいっぱいになってしまった。走る男が涼子の視野から、不意に消えた。涼子は後を追ったが、結局、見失ってしまった。

 男が悪くないことはこの目で見ていた。しかし、走る男には周りの者を挑発してしまう、なにかがあることもはっきり判った。太った男は吸い寄せられるように、ぶつかっていったのだから。もしこのまま尾行を続けて、男の本質を知った時、冷静でいられるかどうか、涼子には自信がなかった。これ以上男を知ろうとするのはやめようと、混乱したコンコースの中で思った。


木曜日の仕事は十時に終わった。涼子は日比谷から桜田門に入り、皇居を回りはじめた。

勝田マラソンまで残すところ三週間。じっくりと走りこんでおきたかった。一人で走っても、自己ベストのスピードはなかなかでなかった。男の安定した走りに併走することで、涼子の能力がどんなに引きだされているか、痛いほどよくわかった。同時に、その日は男の足音が後ろから追いかけてこないと、はっきり判っている分、走りに集中できることも事実だった。

 三時間走った。たった一人で、こんな夜中に、三時間走り続ける気力が自分の中にまだあることを知って、涼子は嬉しかった。皇居を七周したところで、ゆったりしたジョギングに入った。男がどんなふうに働いているか見てみようと、不意に思い立つ。いい走りができて、心がはずんでいたのかもしれない。毎日新聞社の裏手にまわりこむ。おでん屋がでていて、走り終えた空腹には、匂いがこたえられない。おでんの屋台の陰ら男の働く姿がよく見えた。刷りあがったばかりの新聞を、男がトラックに積み込む。一杯になるとトラックは次々に走りだしていく。ウェィティングのトラックがラジオをかけていた。

 「お元気ですか。金曜日の一番早い時間を、あなたと過ごす、ハウ・ドゥ・ユー・ミュージックの時間がやってまいりました。今日のお相手は、私、大前純子です。それでは一曲目、ブルース・スプリングスティーンのトンネル・オブ・ラブからお送りします」

 パーソナリティーのちょっとしわがれた独特の声に、ブルース・スプリングスティーンのもっとしわがれた声が重なり、トラックのウエィティングエリアいっぱいにロックが流れた。リズムにあわせるようにして、男は重い新聞の束をかつぎ歩く。トラックにその束をほうりこむと同時に、不意に涼子のほうに視線を向けた。涼子は慌てて身を縮めた。

「なにか食べるのかね」と屋台のおやじが、不機嫌そうに問いかけてきた。気まりわるげにその場を離れると、涼子は北の丸公園の坂をジョギングで登った。男の部屋にはテレビすらなかった。新聞はきっとその日の刷りあがったものを、職場で読むのだろう。外部との接点といえば後は、トラックから流れてくるラジオだけなのかもしれない。男はいったいなにを目的に生きているのだろうか。彼が発散させる、危険な匂いはなんなのだろう。


男の足音が迫ってくる。いつものように十五?を走り、男が「こいよ」という。涼子はだまってついていく。男が攻め、前の週以上に涼子は感じ、叫ぶ。だまっているが、体を重ねるたびに、優しさが闇を包むのがわかる。終わって、男が小さく口ずさむ。

 ローリングストーンズのルビー・チューズディだった。

 「その曲が好きなの」

 暗闇の中で男が照れた。鼻歌がやんだ。

 「私もストーンズが好き」

 涼子は身をからませた。男は逃げるようにたちあがった。

 「帰れよ。夜が明ける」

 涼子は北の丸公園の登りを全力で駆けあがった。

「心を開いてよ。優しくしてよ。大事にしてよ。きれいといって。かわいいといってよ。馬鹿」と叫んだ。

突然、前の闇からジョガーがあらわれた。きっと涼子の叫び声を聞いてしまったのだろう。擦れ違いざまに、ものめずらしそうに涼子をみやった。まさかこんな時間に人が走っているはずがないと思っていた涼子は、慌ててうつむいてしまった。

 湯タンポの男がさりげなく、ノートをあげてきた。何ケ月ぶりだろう。東京女子マラソンの前の週が最後だったから、そう、三ケ月以上たっている。妻の電話があってから、この男がノートをあげてくることはもうないだろうと思っていただけに、不意をつかれ驚いた。

 あれから何度、涼子からノートをあげようとしたことだろう。名前も知らない、けんかをして歩きまわっているような男にかかわりあっているよりは、少しは暖かい時間を与えてもらいたかった。でも、ノートをあげてしまえば、一生、二時間四十五分を切らずに終わるような気がした。どんな危険な男だろうと涼子にはいま、自分のスピードをひきだしてくれる男が必要だった。勝田マラソンが終わるまではと自分にいいきかせて、涼子は首を横に振った。


勝田マラソンは例年の通り二月十一日に行われた。涼子は自分でも信じられないくらい、楽な走りをした。ずっとトップグループにつけていた。このままいくと、二時間三十分をクリアーできるかもしれない。大変だなと思った。三十分をクリアーしてしまうと、日本の女子のトップクラスにたってしまう。

 三十五キロを過ぎたところで、それまでのつけが全部まわってきた。脚の肉が、突然踊った。けいれんが襲ってくる。ペースダウンをしながら、四十五分はなんとか切りたいと思う。一生に一度、四十五分を切るために、あの男とトレーニングをやってきた。切れれば、あの男と別れられる。その思いだけで走った。rの肉が何度もひきつる。激痛の中で、四十五分を切りたいのか、あの男と別れたいのかよくわからなくなる。ゴールが見えてきた。もう脚は、一歩もあがらない感じだった。

 二時間四十三分五十九秒。

 参加ランナーの女子ではトップだった。けれど、四十五分を切った感激はひとつも湧きあがってこない。こんな無感動な一瞬のために、今まで苦しみ、一生懸命になっていたのかと思うと、涼子はゴール先で立ちつくしてしまった。ただ、あの男とこれで別れられると思った。明日、会社に行ったら資料室にいこう。新聞の縮刷版で去年の三月の日の出の時間を調べておこう。午前三時から走りはじめて、一時間半。それから男の部屋にいくには、明るくなってしまう季節がもうすぐやってくる。

 勝田マラソンが終わって一週間、まるで抜けがらのように、涼子はなにもせず過ごした。

最初にしたことは、資料室で三月の日の出の時間を確認することだった。前年の東京の日の出は、三月一日・六時九分、三月十五日・五時五十四分、三月三十一日・五時二十七分になっていた。三月の中旬には、火曜日に皇居を走るのをやめようと思った。そしてうろたえた。一週間前、ゴール先で、これで男と別れられると思っていたのに、少しでも別れを先に伸ばそうとしている。

 資料室から帰って自分の席につくと、湯タンポの男がまたひょいと、ノートをあげてきた。走る男と別れるためのエネルギーとして、この男を真剣に好きになってみる必要があるのかもしれない。少し間をおいてから、涼子は周りに気づかれないようにうなずいた。

 「男ができたろう」と終わってから湯タンポの男がいう。

 「どうして」

 「わかるさ」

 「うそばっかり」

 「前と違った」

 「なにが」

 「感じかたが」

 「なんのこと」

 「前にはなかった」

 「だから」

 「だからって、どんな男かいってみろよ。うまいのか」

 「やめてよ、そんないいかた。私に男ができたか、どうかは知らないわ。ただ、そんないい方だけはされたくないの。あなたに会って心がぽかぽかしなくなるじゃない」といいながら、この男も自分が真剣に愛していく対象でないことを知る。

 男の足音が近づいてくるのを待っていた。でも男はあらわれなかった。涼子はひどくがっかりした。二時間四十五分が切れたことを、報告できないことに、がっかりしているのだろうか。それとも、走りの後の時間をもてないことに、がっかりしているのだろうか。こんなことで、ほんとうに三月の中旬までに、私は別れられるのだろうか。

 竹橋を回りこむ。もうこの時間になると、いつもは深閑としているのに、その日はこうこうと灯がつき、トラックが慌ただしく出入りしていた。涼子はやっと気がついた。前の内閣が倒れ新しい内閣が誕生したが、その日決まるべき組閣が前の内閣とのトラブルのしこりで難行していた。深夜になってもなかなか調整がつかず、最終的にメンバーが決まったのは、午前二時を過ぎてからだった。

 涼子の職場もそのことで忙しかった。事前の打合せ事項が突然変更になったりして、涼子もとまどった。きっと新聞も臨時報道態勢をとったのだろう。

 何時になってもトラックが行き来しているのは、そのせいなのだろう。信号をわたると新聞社の裏側にはいりこんだ。男が忙しそうに働いている。

 ウエィティングのトラックから「夜明けの歌謡曲」という、午前三時からはじまった番組がボリュームいっぱいに流れている。その前の番組「ハウ・ドゥ・ユー・ミュージック」のエンディング曲、ローリングストーンズのルビー・チューズディを男はきっと聞いたことだろう。それを知ると、涼子は再び竹橋をゆっくり走りだした。マラソンから一週間ぶりのジョギングは、やがてすべてのことを忘れさせてくれ、涼子は走りの中に没頭していった。


その後、二週続けて男はあらわれなかった。「どうしたのよ。会いたいよ。でてきてよ」と走りながら涼子は一人つぶやいた。翌日、一日中、男のアパートの前に立ってみた。

しかし、男はあらわれない。火曜日以外の午前三時に走ったことのない涼子が、金曜日の午前三時に皇居を走ってみる。やはり男はあらわれなかった。どこかに消えてしまったのだろうか。

 そんな日曜日、湯タンポの男がノートをあげてきた。男が消えてしまった不安を埋めたかった。仕事を続けながら、涼子は小さくうなずいた。

 食事を作り、男が仕事を終えて、マンションにやってくるのを涼子は待っていた。

 「テレビ、テレビ」といいながら、男は涼子の部屋にかけこむと、テレビのスイッチをつけた。

 「なによ」と涼子は氷を準備しながらキッチンから聞いた。

 「ボクシング。日本選手権なんだ。ウィリー太田。チャンピオンの九連勝がかゥってる」と男は叫んでいる。男がボクシングファンなのを、涼子ははじめて知る。そして、この人のどこまでを自分が知っているのだろうと思う。キッチンからウィスキーと氷の入ったグラスをトレイにのせ、リビングにあらわれて、涼子は驚いた。

 ブラウン管の中に走る男がいた。

 「四ラウンドまで、挑戦者断然有利の展開でやってきました。ウィリーの九連勝はないのか」とアナウンサーが絶叫している。

 涼子は大きな声をあげると、トレイを落とした。グラスの割れる音が響きわたった。

 湯タンポの男が「どうした知ってる奴か」と驚いていった。

 それには答えず「どちらがチャンピオンなの」と尋ねた。

 「白いトランクス」というと男はテレビに見入った。

 走る男はチャレンジャーだった。五ラウンドがはじまっていた。

 「篠田ワン・ツー。あっ、あぁチャンピオンのストレート。篠田、ノーガードだ。はいった。篠田、ダウン。篠田、ダウン。形勢、一気に逆転です。立てるか。立てない。立てない。ノックアウト。ノックアウト。ウィリー強い。一発で沈めました。ウィリー太田。九連勝。次はいよいよ東洋です」

 甲高くしゃべるアナウンサーの声に、キャンパスに背をまるめて倒れこんでいる走る男の姿が重なった。

 「敗れた篠田選手の談話がはいりました。声がわかった時ストレートが入た・・・・

これが篠田選手の談話です。なお篠田はその後意識不明に陥り、さきほど救急車で病院に運ばれたということです。それにしても声がわかったというのはどういう意味なんでしょうか」

 アナウンサーは解説者に尋ねた。

 「おそらく観客の中に、知り合いの声援を聞いたというのでしょうね。意識が集中していなかった証拠です。断然、篠田選手が優勢だったとはいえ、やはり、チャンピオンのパンチが怖かったのでしょう。恐怖心から逃れるために、声援の中に知り合いの声を探していたのでしょう」

 解説者が訳知りに話している。

 「誰かに似てる声だ」とあの時、篠田はいった。

 涼子の声をどこで聞いたのか、涼子が何者なのかを、ずっと篠田は知ろうとしていたのだろう。思いだしたいことが、思いだせない時の、砂を咬むようなざらつきかげん。涼子と出会ってから、ずっと篠田はこのざらついた感触に、いらつき続けていたのかもしれない。チャンピオンベルトの返還。ルールの説明と続くセレモニーの中で、チャンピオンのパンチの恐怖から彼は逃げたかったのだろう。なにか別のことを考えていれば、恐ろしさは忘れられる。なにがいいだろうか。なにか考えることは。そうだ走る女の声は誰に似ているのだろう。いつも抱いている疑問がリングの上で浮かんでも不思議ではないと、涼子は思った。

 「彼女の声は誰の声だろう。えーと、えーと」

 パンチの恐怖は少しは薄らいだのだろうか。それなら涼子も嬉しいのだけれど。

 五回がはじまってすぐ、男がチャンピオンの懐に飛び込んでワン・ツーを放った。

 涼子がテレビの中に走る男をみつけて、大きな驚きの声をあげるのと、ワン・ツーを放った瞬間に「あの声は」と男が気づいたのが、一緒だったのだろう。男の動きが一瞬止まった。ノーガードになった。そこにチャンピオンのストレートが襲う。声がわかった時、ストレートが入った。・・・・解説者のいうとおり、テレビに写る走る男の姿に驚愕してあげた自分の声が、男に届いたのではないかとさえ涼子は思った。

 「走る女」

 「ロイヤル麹町ハイム」

 「誰かに似た声」

数少ない断片をもとに、男も涼子のクロスワードパズルを解こうと必死だったのだろう。

 走る男の名前を篠田とはじめて知る。でも、下の名前さえわからない。顔の傷。チンピラたちのいいがかりに対する、身のこなし。正月やこの二週間の不在。それはこの試合のための合宿だったのだろう。男がボクサーだったと分かっても解けないクロスワードパズル。

 試合が早く終わってしまったため、テレビは何度も何度もノックアウトシーンをくりかえしていた。湯タンポの男がそれを熱心にみている。グラスを運ぶ手が何回も宙に浮く。この日のために、あの走る男はあんなにストイックに暮らしていたのに、と思うと涙がでてしょうがなかった。

 「やめてよ」といったが、湯タンポの男はテレビを消さない。

 「もうやめて」

 叫ぶと、乱暴にスィッチを消した。

 「どうしたんだきつい顔をして」

男はいっこうに事情をわかっていない。涙をみられたくなく、涼子はそのまま男にしなだれかかっていった。

 涼子は手を伸ばして電気を消した。男がみせろよといって、電気をつける。涼子が消す。

何度かそれが繰り返される。やがて、そのざれごとに、男が興奮する。暗がりの中で涼子は男の背に爪をたてた。男の妻に証拠を残さないようにしようとはもう思わなかった。涼子は篠田に抱かれている錯覚に陥り、叫んだ。そして篠田のために声を立てて泣いた。

 「新しい男って、ノックアウトされたあいつだろう」

 終わった時、男がいった。涼子はなにもいわなかった。男もだまって自分の家にかえっていく。この男がノートをあげてくることは、もう二度とないだろう。

 次の朝は遅く目覚めた。身体の芯に疲労がたまっている。こんな時は走ってその疲労を追いだすのがいちばんだとわかっているのに、なかなか動く気になれない。

 ベッドの中でだらだと時間を過ごす。考えごとをするのさえおっくうだった。新聞を広げる。「巨人オープン戦十連勝」という見出しが、優勝した時のような大きな文字で書かれていた。涼子のお気にいりの巨人軍は、今年は調子が良さそうだった。涼子は丹念にその巨人戦の記事を読んだ。監督の談話を細かく読む。そして、その横に大きな見出しが踊っていた。

   「日本フェザー級チャンピオン戦、挑戦者死ぬ」    三月二日夜、東京・後楽園ホールで行われた、プロボクシング日本フェザー級タ イトルマッチ十回戦でKO負けし、昏睡状態のまま病院に運ばれた、挑戦者日本 フェザー級四位篠田圭一選手(二一)平子ジム所属、青森県五所川原市出身は三 月三日未明水道橋中央病院で死亡した。篠田選手は日本選手権の五回二十一秒に チャンピオンのウィリー太田選手(大熊ジム所属)の強烈なストレートを側頭部 に浴びてKO負け。控え室で意識不明に陥り、同病院に収容されたが、パンチの ショックによる急性硬膜下血腫で開頭手術中に死亡した。日本でのプロボクシン グの試合で死亡したのは同選手で二十三人目。日本選手権での死亡は初めてであ り、日本ボクシングコミッションが五十九年六月にボクサーの生命を守るため、 全選手に頭部CT検査を義務づけてからは三人目の死亡となった。


新聞を読み終わると電話があった。

 「あんた終わりにすると、いったじゃない。なんなのよ。終わってないじゃない」

 名前もなのらず湯タンポの妻はいった。そして一方的にしゃべり続けた。涼子は受話器から響いてくる女の一オクターブ高い声に辟易して、受話器を遠くに離したまま持ち続けていた。新しい湯タンポを真剣に探さなければと思った。

 女の抗議はいつまでも続いている。だまっている涼子に「なにかいったらどう」と、女はいらついていった。「でも」というと「なによ。でもなんていえる立場じゃないでしょう」といって女はまた一人しゃべりまくった。涼子はこの女が気がすむまで、受話器を置かないことが自分の義務だと思った。疲労は目覚めた時以上に体内に蓄積していた。


「さあ、みなさんとご一緒に楽しんできたハウ・ドゥ・ユー・ミュージック、火曜日のいちばん新しい二時間も、あっというまに過ぎてしまいました。そう今日はルビー・チューズディ。あなたにとってこの一日がルビーのように素敵な火曜日でありますように。今日のエンディング曲は、いつものローリングストーンズ、ルビー・チューズディにかえて、サイモン&ガーファンクルのボクサーです。それではおやすみなさい」というと、ガラスの向こうの調整室に座っていた、チーフディレクターの湯タンポの男がおやっという顔をした。涼子と眼が会うと男は慌てて視線を落とした。

 ライ、ライ、ライ。嘘で、嘘でというボクサーのリフレィンを聞き終わると、「ハウ・ドゥ・ユー・ミュージック」火曜日のパーソナリティー、村田涼子は日比谷にあるラジオ放送局をでた。

 午前三時。涼子は日比谷通りから桜田門に入り、大手町の直線をゆっくりと走った。篠田の死に対する悲しみは、不思議に湧いてこない。というより、救われたという気持ちが強かった。空が白くなるまでには終わらないだろうという予感があった。救われた。続いていたらどうなっただろうと思うと、走りながら身振るいした。

 竹橋のコーナーを回る。

 「グッバイ・ルビー・チューズディ」と涼子はルビー・チューズディの一節を口ずさんだ。

Good bye Ruby Tuesday      さよならルビー・チューズディ

Who could hag a name on you    君に名前なんかつけられなかったよね

When you change with evry new day 君は次の日には変わっていくのだから

Still I am gonna miss you.     でもぼくは君がいなくなってさみしいさ

Dont question           どうして彼女が自由でいなきゃならないか

Why she needs to be so free    なんてきいちゃいけない       

Shelltell you its the only way to be それが彼女の生きるただひとつの  

She just can not be chained to 道よと答えるだろう       

a life where nothing gained     彼女は人生に縛られるのが嫌いなのさ 

And nothing lost at such a cost.   何も起こらない平凡な人生なんかに 


   *

                                      

 半蔵門から三宅坂にくだる外濠の土手に、もう春の匂いがした。先週の火曜日には冬の湿った冷気が、スニーカーの底からしんしんとあがってきてたというのに。コーナーをまわるたびに、沈丁花の匂いが飛び込んでくる。体内に薄く澱のように蓄積していた疲労は、身体を前に動かすたびにゆられ、液体化し、やがて気化して涼子の肌から逃げだしていく。それが涼子にはたまらなく爽快だった。これからはゆっくり走っていくことにしようと思う。ボクサーのことも、湯タンポの男のことも、マラソンで二時間四十五分をきることも、もうすべて忘れよう。私はやっぱり一人がいい。涼子は二時間かけてゆっくりと皇居を五周した。空が白くなっていた。

                                     

   了

*Cミック・ジャガー&キース・リチャード、今野雄二訳

  
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