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小説

小説現代 1991年6月号掲載
ミシガンの十六夜

 直径三十メートルのドーナツ型水漕に海水が注ぎ込まれている。地下の貯水漕から七本のパイプを通して、毎分三百リットルの海水が音をたてて落ちる。

東京都葛西臨海水族園。五年の月日をかけて企画、建設されてきた水族館がようやく完成しようとしていた。十月のオープンを控えて、八月の末に東洋一といわれる巨大水漕に水が入れられることになった。

「おとついから水漕に海水を入れている。今日、満杯になったところで、マグロを放つんだって。報道陣にもその模様を公開するらしい。見にいこうよ。僕らの水族館だ」

 大島瑛子にそう声をかけてきたのは近藤延親だった。

「あの水漕がいっぱいになるのに三日もかかるのね。延親君の水圧計算、大丈夫?。満杯になったとたん、破裂なんてことになっても知らないわよ。水びたしの報道陣に何を書か れるかわかったものじゃない」

「大丈夫。そのためにアクリルの厚さが二十六センチという特注の水漕になっている」  

そんなことをいいながら、新木場から荒川の湾岸道路を渡った。水族館のシンボルであるガラスのドームと渚が見えだした。夏の終わりの光を受けて銀色に輝いている。ドーム のむこうに、東京ディズニーランドの異様な建造物がさまざまなかたちで建っていた。その右奥には巨大資本のホテル群が、これも奇をてらったデザインで建っている。

 東京ウオーターフロントという名前のもとに展開される都市の再開発。それは結局、海岸線を消す作業をしているのではないだろうか。わたしたちのプロジェクトが少しでも異を唱えるものであればいいのだけれど。瑛子は湾岸道路の高い視点から葛西、浦安舞浜を 見ながら思った。

 音をたてて水が落ちる。ようやく水漕は八分目まで埋まっていた。地鳴りのような海水音が水族館に鳴り響く。海底地震がおきたらこんな感じだろうか。不気味な振動が続く。

 海水を注ぐ。この単純な作業がどうしてこんなにダイナミックでおもしろいのだろう。 瑛子は少しずつ増え続ける水をじっと見つめ続けた。

 海水バルブが締められ、急にあたりは静かになった。瑛子の目の前にビルでいえば三階 建ての高さもある巨大な水の壁があった。横も、後ろも水の壁にとり囲まれていた。

 ライティングのスイッチが入れられる。真上から落ちる強い光。水漕の上のほうは太陽 の陽をいっぱいに受けたように水面が白く飛び、キラキラと輝いている。瑛子の目の高さ のところでは海の深さと天空から海底に差し込む一条の陽がうまく溶けあっている。そして水漕の底の部分は暗く重く蒼い。

「成功だ。プランニング通りだ。いこう。マグロが運びこまれてくるらしい。これが泳ぎだしたら僕らのプロジェクトも終わりだ」

 延親に促されて、瑛子は水族館の裏手にでた。トレーラーが次々に入ってくる。男たちが慎重にマグロを特製の網ですくいだしている。「どいた、どいた」網を両手に抱えて男たちがトレーラーと水族館の間を全力で疾走する。

 海の回遊貴族と呼ばれるマグロはデリケートな魚だ。成魚する前の皮膚は大変に弱く、 ほんの少し触れるだけでも傷つく。一匹の傷からマグロの大量死が始まる。どんなことが あっても手で直接触れることはできない。また驚くと時速百キロを超すスピードで逃げる習性を持つ。移動中の振動でマグロは水漕に激突してしまう。同時に回遊できる大きさの 水漕を作ることは水圧の関係で不可能といわれ、水族館でマグロは飼育できないとされてきた。マグロを飼う。この世界で初めてのプロジェクトに葛西の水族館は挑戦していた。

 スタッフたちは高知県の沖合で回遊するマグロ二千匹を十日をかけて確保した。振動を 防ぐため、ほとんどエンジンを切った二泊三日の木更津までの船旅。そこから葛西までは 活魚専用トレーラーでそろりそろりと運んだ。高知沖で船のいけすに移す間にもう肌が傷 つき捨てられていくマグロが何匹もいた。波の振動でタンクに激突し、鼻を折り、背骨を 折ってマグロが次々に死んでく。捕獲スタッフは三日間いけすの天井に張りつき、水漕を 覗き続けた。傷つき、死んだマグロを見つけ次第海に捨てる。そんな作業をくりかえしながら、生きながらえたマグロ千三百匹が葛西にやってきた。

 男たちはぶつかり、水をかぶり、足を滑らす。必死の怒声が葛西の海に響く。高知沖から生き伸びてきたにもかかわらず、水族館の水漕の直前で捨てられていくマグロもいる。

 スタッフは百人はいるだろうか。みんな必死で走っている。瑛子は男たちの中に樺沢幸 介を探した。が、樺沢の姿はなかった。いつ戻ってくるのだろう。水族館のオープンまで あと二カ月しかないというのに。

 マグロの搬入騒ぎが終わる。報道陣が巨大水漕に招かれた。瑛子と延親も一緒に入った。  そこに海があった。マグロが群遊していた。巨大なhーナツ状の円柱の外側をマグロが泳 ぐ。アクアシアター。円柱の内側は階段状になっていて席に座りながら、マグロの回遊を 三百六十度眺められるようになっている。

 その肌はアルミの甲冑におおわれた武士のようだ。群遊して泳ぐ様子は、隊列を組み、 整然とこれから戦いに挑む若き志士を思わせる。水漕の深く濃い蒼い海から、ライトアップされた一条の陽のもとを通り過ぎる時、マグロはその肌を艶やかにきらめかせた。

 作業を終えたびしょぬれのスタッフたちが次々にアクアシアターに入ってくる。椅子に 腰掛け、感慨無量の面持ちでマグロの泳ぎを見つめている。人々の姿が黒いシルエットになって浮かびあがる。そのむこうの蒼い世界を志士たちが泳ぐ。悠然と、泰然と。

 いま樺沢にここにいて欲しかった。

 館長が報道陣のインタビューを受けている。瑛子は魚の動きに目をやりながら、このプロジェクトが始まった五年前のことを思い出していた。

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