ようこそ「一人広告代理店」馬場コラボレーションへ

小説

小説現代 1992年6月号掲載
サマータイムの終わり

夏時間 馬場真人

響子のもとに突然エドワード・スティーブンスという、ニューヨークの弁理士からファックスが入ったのは 八月の始めのことだった。

日本のセラミックスの会社とニューヨークの企業が十月末に技術提携をすることになったので、 日本側の代理人になって欲しいという内容だった。

その三年前に木下響子特許事務所を西新橋に響子は開設していた。

スタッフも事務の子を入れると五人になり、ようやく事務所は軌道に乗り出していた。

独立以来、一日も休んでいなかった。

今年こそ夏休みをとろうと思っていた。そんなささやかな響子の望みも、

ステイーブンスという初めて知る弁理士からの依頼で消し飛んでしまった。

契約までにやらなければならないことが多すぎた。

エドワードがどこで響子のことを知ったかは不思議だったが、ファックスをやりとりしてみると、

なかなか細かいところに気のつく理論的な男だった。

毎日のようにエドワードは何十枚というレポートを送ってきた。

それに対して響子も相手が音を上げるくらい細かい質問と、日本側の見解を繰り返しファックスした。

一度も顔を会わせたことがないのに、この二ケ月でお互いの性格は十分にわかっていた。

十年来の友達のように、二人は十月半ばのニューヨークで初めての握手をした。

それでも交渉はアメリカの契約社会独特のいいまわしや、双方の利害が入り組んで難行した。

アメリカのビジネスというのはそういうものであり、決め細かな神経を使いきるために、響子たちの仕事があるといってもいいすぎではない。

泊まっているメイフラワーホテルのすぐ横にある、コロンバス・サークル五九ステーションから、響子は毎日地下鉄の一番線に乗り、二三丁目で下り、エドワードのオフィスに通った。

いつものことだけれど、ニューヨークに入ってから響子は五番街を歩いたこともなかった。

エセックス・ハウスというホテルを探したいと思っていたが、そんな余裕もなかった。

ニューヨークでビジネスをやっていくだけで、まだまだ響子は精一杯だった。

ニューヨークは響子に緊張を強いる。街の交差点を渡るのでさえ全神経を張りつめていなければならない。

しかし、その緊張が刺激的で響子は好きだ。

張りつめた気持ちで地下鉄に乗り、さまざまな人間を見ているだけで、響子はニューヨークにいる幸せと不安を感じた。

エドワードのオフィスはパークアベニューがはじまる一番地の四一階にあった。

周りに高いビルがないので、ハドソン川を往き交う船までもよく見えた。

響子とエドワードはなかなか譲らなかった。

交渉が行き詰まると、ハドソン川のきらめきを二人は見つめあった。

この十日間お互いに食事を共にしたこともなかった。

得意先の利害を代表している弁理士同士が食事を共にすることをエドワードは潔しとしないのだろう。

主張が平行線をたどりだすと、きまって今夜あたり一杯いかがですかと誘ってくる日本の代理人と、エドワードの仕事ぶりは明らかに違っていた。

ニュージャージー州の広大な原野に太陽が落ち、ハドソン川が真っ赤に染まると、

エドワードは今日のファイトはここまでといって、交渉を打ち切った。

響子は再び満員のアップタウン行きの地下鉄に乗り、五九ステーションでおりた。

重い鉄格子を押して出口を出る。コロンバス・サークルの螺旋状の階段を登るこの瞬間が響子は好きだった。

一歩ずつ登るごとに、黄色に色づいた十月のセントラルパークが響子の視野の中で少しずつ広がった。

この公園はどうしてこんなにインテリジェンスを感じさせるのだろう。

響子がいつかセントラルパークの西角にあるメイフラワーホテルを定宿にしだしたのも、この公園の知性に惹かれてだった。

メイフラワーホテルは古くて小さいが、セントラルパークの知性をそのまま引き継いだような静かなホテルだった。

一日中エレベーターの前にはガードマンがついていた。

ファックスや、アップルのコンピューターを響子には特別に自由に貸してくれた。

ニューヨークで女が一人仕事をするには安全で便利なホテルだった。

しかし、目の前のセントラルパークを散歩する余裕も響子にはなかった。

ホテルにつくと夜遅くまで、その日一日の合意点をワープロとコンピューターで文書にした。

土、日曜日はホテルに閉じこもって、膨大な枚数に上る同意書の一字一句をチエックすることで精一杯だった。

食事はホテルのルームサービス。一杯のブランデーを飲み切る前に、正体もなくベッドに倒れ込む毎日だった。

そんな毎日が終わったのは、ニューヨークに入って十日目だった。

二通の同意書にそれぞれのサインをして、握手をした時はすっかり夕暮れになっていた。

エドワード・スティーブンスは初めて響子を食事に誘ってくれた。

三番街の四九丁目の角にあるスミス&ウオーレンスキーは昔のニューヨークの匂いを十分に残していた。

多くの人が歩いたことで磨かれた木の床は、一歩歩くごとにいい音で軋いだ。

カリフォルニアワインのシャドネーで乾杯をすると

「あなたはなかなかのファイターだった。ニューヨークでも十分通用する腕こきの女性弁理士になれるよ」と

エドワードはいった。

響子はお世辞とわかっていながら、嬉しかった。照れながら、エドワードの言葉をはぐらかした。

「レア・リブステーキがくる前にいっておきたいのだけれど」と前置きして、

エドワードは自分のアシスタントにならないかといった。週給で二千$払うと条件まで提示した。

東京より物価の安いニューヨークだから、きっと有利なはずだとも。

響子はエドワードの申し出が嬉しかった。

交渉の国アメリカで、響子の実力がお世辞ではなく、認められたのだ。

しかし、響子は黙って頭を振った。なぜわたしは東京を離れられないのだろう。

両親はすでに死んでいなかった。東京に誰かが待っているわけでもない。

どうして、条件のいいニューヨークで働けないのだろう?

それはきっと「いつか」という願いがわたしの中にあるからなのだろうと思いながら、響子はもう一度強く頭を振った。

「そうか駄目か。週給二千二百$まではなんとか出せるのに」といってエドワードは本当に残念がった。

そして、食事が終わるまで、もう二度とその話はしなかった。

エドワードは厚さが五センチもあるリブステーキを一口食べると、ジュシィーだといった。

肉をジューシィーと表現する国があることに、響子は文化の新しい発見をした気がした。

食事が終わり、響子の方からどこかでもう少し飲まないかといった。

すべてが終わった夜に、このまま一人でホテルに帰りたくはなかった。

それにエドワードから響子の仕事に対する賛辞をもっと聞きたかった。

しかし、店から車を出すとエドワーズは

「今夜は妻とこれから週に一度と約束しているセックスの日なのでね」とはっきり帰る理由をいって、走り去っていった。

時計を見ると八時を少し回ったところだった。

響子はゆっくりと四九丁目を歩くことにした。

三番街から、八番街まで歩いて、十丁あがると小一時間でメイフラワーにつく。

ハードな仕事が続いた後だっただけに、なんだかのんびりしたかった。

ゆっくり歩きながら「今夜は週に一度と約束している妻とのセックスの日か」と思わず口づさんで、響子は笑った。

セックスまでが契約になるアメリカ社会で、どんなに高いペイを約束されても、弁理士という契約の仕事を専門にしていくことは自分には不可能だと思いながら、響子は薄暗い四九丁目を西に歩いた。

ニューヨークには光煌くイメージがある。

しかし、東から西に抜ける道は、けっして光に満ち溢れているわけではない。店の明かりしかない道が多くある。

工事の続くビルの角では向こうからやってくる男の影さえはっきりしない。

でもこの時間ならどこを通ってもまず安全だ。

七番街を抜け、響子はミュージカル「キャッツ」を演っているウインターガーデン劇場の横から、

ブロードウェイを急ぎ足でつききった。この通りはなんだか新宿の歌舞伎町みたいで、何回通っても好きになれない。

ブロードウェイから八番街に抜ける四九丁目は、どの劇場もミュージカルが始まったばかりで、ひっそりとしていた。

響子は少し足早になった。左手に「瀬戸」という日本料理屋の看板が闇にぼっと浮かんでいた。

酔った日本人の男がドアを開けて出てきた。

「よっ、姉ちゃん、やらせろや。いくらや、金なら持ってるぞ。」

響子の前に立ちはだかった。話しながら体が前後にふらふら揺れた。

「いいやろ姉ちゃん。ええかっこしぃなしや。ニューヨークやんか。誰も見とらへん」

男がしなだれかかってきた。

響子は男の胸を突き放すと、道路の向かい側に駆け出した。

「なにすんねん。こら待たんかい姉ちゃん」

男の声が薄暗い四九丁目に響き渡った。

響子は必死に走った。男が後をつけてくる。足音が近づいた。

逃げた。もう許せない。

ハンドバッグを振り回しながら「嫌よ。やめて」といって振り向いた。

そして後ろの男が日本人ではないことに初めて気づいた。目の前に黒人がいた。

振り回したハンドバッグが空を切る。それを黒人が掴んだ。

そのまま男は逃げた。響子も一緒にひっぱられた。歩道に叩きつけられた。膝がしらに激痛が走る。

響子はおもわず息を止めた。手に掴んだバッグの紐が勢いよく引かれた。手の平に熱が走る。

血の匂いが手の内から立ち昇った。コンパクトや口紅が舗道に散乱し、反響した。

「泥棒」という言葉が聞こえた。響子にからんできた日本人が叫んでいる。

その声に向かって突然、炎があがった。

ピストルの音を初めて響子は聞いた。

「うわぁ」という奇妙な叫び声をあげ、男は店の前の行燈に倒れこんだ。

ガラスの壊れる音。灯が消えて、あたりは一段と暗くなった。響子はただ震えていた。膝がしらが痛い。

響子は黒人を見上げた。

「ヘルプミー」

響子は声をあげているつもりだった。でもそれは声にならなかった。日本料理屋から騒ぎを聞きつけて、人々が出て来た。

黒人は素早い動きで八番街へ消えた。

パトカーのサイレンの音が近づいてくる。響子は店のトイレに入った。

舗道に倒れたときに知らないうちに、顔を打ったのだろ。右頬が汚れている。

右腕をまくると肘のあたりが黒く内出血していた。膝に鈍痛が走る。ハンカチを濡らして頬の汚れを落とした。

ファンデーションのなくなった三十二歳を過ぎた素肌が暗い蛍光燈の光に当てられて、どす黒く浮かびあがった。

「がんばるのよ」と響子は鏡の自分にいった。

トイレを出ると店のドアに急いだ。響子がドアを開けるのと、救急隊が入り込んでくるのが一緒だった。

響子は走るようにして、黒人が消えた八番街と反対のブロードウェイに向かった。

タクシーを止めた。あと十丁を一人で歩く勇気はもうなかった。

「どこへ?」とタクシードライバーが聞いている。

「エセックス・ハウスへ」といってしまえば、すべてが解決する気がする。

いいよどんでから「パークサイドウエスト、六二、メイフラワーホテル」というと急に震えが襲ってきた。

恐怖を忘れるために、タクシーに揺られながら、響子はこの旅の出発の日のことを思い出していた。

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