ようこそ「一人広告代理店」馬場コラボレーションへ

小説

未発表原稿
シリウス

「もうちょい時計回し。はい、オーケー。商品の位置はそこでけっこう。これでいきましょう。じゃ照明さんお願いします」 ビデオモニターをのぞき込みながら、商品の位置にこだわり続けていた演出の松川順一がようやく全体の構図とカメラの動 きにオーケーを出した。制作進行といわれるなんでも屋の坊やが徹夜で磨き上げた、オールステンレスのキッチンウエアは 撮影セットのあらゆるものを写し込んでしまう。カメラが回り込みながら商品のアップに迫ろうという今回の順一の演出の 狙いでは写り込みはなおさらだ。照明機材など美術セット以外のものが写り込まないようにするためには、これから二時間 以上の時間をかけて照明スタッフの悪戦苦闘が始まる。

最初のワンカットが回りだすまでの、コマーシャル撮影のいつもながらの時間の長さにうんざりしながらも、ようやく撮影 の段取りがついたことにほっとして、順一はスタジオ中央に組まれた撮影ステージを降りた。薄暗いスタジオの一番隅に置 かれた長椅子に座り込むと、テーブルのおにぎりを頬張り、新聞を開く。美術セットが気に入らずスタジオ入りした直後か らああでもない、こうでもないと口を出していたら、朝の食事も新聞も忘れていた。

サービスと呼ばれる照明の補助灯の細い光りを当てながら、順一は社会面を上から下へと読んでいった。死亡欄に細い光を 当てた時、その記事が目に飛び込んできた。

ジェム・ロビンソン、エイズで死亡。

個性俳優として日本でも人気のあったジェム・ロビンソンさん(五五)が六日未明、ロスアンジェルス、サンタモニカの病院 で死亡した。死因はエイズからくる心不全。当初モデルとしてデビュー。その後ニューヨークのブロードウエイで舞台俳優 として実力が認められ、映画界に進出。個性俳優としてアカデミー賞助演男優賞を二度獲得。二十数年前に日本の男性ファ ッションの草分け的存在であったCAN(キャン)のモデルとして日本でも人気を集めた。

      

「あのジェム・ロビンソンが死んだか」

記事を読み終わると順一は思わずつぶやいた。




高校生の順一にファッションは自己主張の一部だということを教えてくれた最初の大人がCANのデザイナー薬師寺海渡やく しじかいとだった。そのころ創刊された男性週刊誌が表紙にCANのトラッドスタイルの世界を描き続けてその人気は一気に 爆発した。隣街の女子高生と駅前の喫茶店で待ち合わせた日、順一もボタンダウンのシャツに細いコットンパンツを初め てはいた。大学に入っても学園闘争でなにもすることはなかった。大学四年のほとんどをテレビ局のアシスタントディレ クターのアルバイトで過ごした。派手なCANのブレザーを小粋に着こなした構成作家や演出家たちを見るにつけ、自分もテ レビメディアの世界で仕事をしたいと願った。順一のそんなささやかな欲望も、学校にほとんど行かなかったつけがしっ かりまわってきて実現しなかった。テレビ番組を作るところだと信じて受験したフィルムプロダクションが、コマーシャル を作る制作会社だと知ったのは採用が決まってからだった。書いた辞表を出さずにすんだのは「君は明日からCANのコマーシ ャルの制作進行についてもらう」という髭をはやした背の小さい社長の一言だった。

CANのコマーシャル撮影はほとんどロスアンジェルスで行われていた。海外に撮影に行く得意先などほとんどない時代だ。 ロスの風景を切り取りそこにCANのロゴタイプをおくだけで広告になった。初めてのロスの街で、車の走りを無許可で撮影 する間、体を張って街を走るほかの車を止めるのが坊やと呼ばれる制作進行の順一の仕事だった。黒人になぐられながらも 順一が歩道の人止めをしている間に、CANの撮影監督として当時若者の間で熱狂的人気があった沢渡公明のカメラが回り続 けた。順一が黒人にノックアウトされた頃撮影は決まって終了した。順一の瘤と代償に、CANの広告は若者たちの情報にな った。

しかし、街の風景を切り取るだけの広告が長続きするはずがなかった。薬師寺海渡の鋭い感性がその危機感をまず読み取っ ていた。

「もう街ではなく、そこに生きる人の時代なんだ。ジェム・ロビンソン。今夜見たロスの舞台俳優だ。この男がCANそのも のなんだ」

芝居から帰ったその夜、ジェム・ロビンソンがどんなに繊細で存在感があるかを、フォークに巻き付けたパスタを食べるの も忘れて、薬師寺海渡は一人しゃべり続けた。

まだ行ったことのない日本で撮影をする。それがジェム・ロビンソンのたったひとつの出演条件だった。 CAN宣伝部の大田黒慎平と順一は空港から当時できあがったばかりの赤坂東急ホテルにジェム・ロビンソンを連れていった。 部屋につくと大田黒が流暢な英語でなんなりと用事をと言う。もちろんその雑用に走り回わるのは、坊やの順一の仕事だった。

「どうしてもシリウスを探して欲しい。シリウスに会いにこの日本に来たのだから」

ジェム・ロビンソンは早口の英語で喋りだした。大田黒がフフン、リアリーと相づちを打ち続ける。

「順一、聞いての通りだ。とにかくジェムが日本を去る一週間後までにどうしてもシリウスを見つけてくれないか。撮影の 準備とかいろいろあって大変だろうけど、ジェムは日本でシリウスを探すためにこのコマーシャルの出演をオーケーしたん だから」

聞いてのとおりといわれても、早口なジェム・ロビンソンの話は断片的にしかわからなかった。

「大田黒さん、シリウスというのが馬の名だというのは分かったんですが、彼はどうしてそんなにシリウスを探すのに必死 なんです。その後のことはチンプンカンプンで」

これだから英語のわからない奴は嫌なんだという表情で、大田黒は両手を広げるとジェム・ロビンソンの話をしてくれた。




ジェムはロスで乗馬クラブに入っていた。騎乗の時の姿勢が、いつも背をまっすぐに伸ばし続けるモデルの仕事に役立つと 考えたからだ。少しでも仕事のためにと始めた乗馬だったが、ジェムはいつか馬と人が一体になるスポーツに傾斜していっ た。オリンピック候補選手になったこともあるという。しかしポッとでのモデル暮らし稼業の技量では、子供の頃から馴染 み親しんできた上流社会の子息にかなわなかった。ジェムが訓練に訓練を重ねても、ボストンやシカゴ生まれのワスプの息 子たちが、いとも簡単にオリンピック選手の座を手にしていく。

その屈辱感を慰めてくれたのがシリウスだった。

シリウスが生まれた日のことをいまもジェムは忘れない。母馬は巨大な腹を律動し続けたがなかなか仔馬を生むことができ なかった。人手が欲しいと言われ、その日なにも仕事のなかったジェムはサンタモニカの浜辺に近い厩舎で、生まれて初め て馬の出産を手伝った。巨大な女陰が開き、仔馬の脚が覗いてもなかなか産み出されない。ジェムたち大男が必死にその脚 をひっぱり続ける。母馬が産気づいてから一日が過ぎ、ベテランの厩舎員たちが死産になるだろうと言い出したころ、その 仔馬は産み落された。羊水にまみれた仔馬の真白な毛が、サンタモニカの冬の朝明けの光を受けきらきらと輝く。その冬の 海の空には大犬座の一等星シリウスが輝いていた。ジェムは誕生に立ち会った男だけが許される名付け親として、この白馬 の仔馬にシリウスという名前を与えた。母馬はシリウスを産み落すと同時に死んだ。決してオリンピック馬になることのな かったはかない生涯。母馬がたどることのなかった栄冠をこの馬に。シリウスが成人する三年後のミュンヘンオリンピック を目指そう。ジェムとシリウスはサンタモニカの砂浜で夜遅くまで練習に明け暮れた。

しかし気品に満ちた白馬に成長していったシリウスにも、なにかがたりなかったのかもしれない。

練習では果敢な跳びをみせるが、大試合となると大事なところで跳躍を躊躇し態勢をいつも自分から崩していく。ジェムが どんなに努力してもワスプの子息にかなわないように、どんなに姿がよくても最後は血統馬だけが勝ち残る世界だった。馬 術は選ばれた馬と人だけのスポーツなのかもしれない。ミュンヘンオリンピックの夢は、ジェム・ロビンソンにもシリウス にもやってこなかった。自分たちの選ばれなかった運命をシリウスは動物的直感で感じとっていたのだろうか。奇妙にジェ ムにシリウスはなついた。

消えかけた夢の代わりにジェムには新しい可能性が芽生えていた。

ニューヨークのブロードウェイのたった二人だけの舞台のオーディションを受けないかという誘いがあったのは、ミュンヘ ンオリンピックの国内予選に敗れて、ジェムが少し自暴自棄になって、ウエストウッドのいかがわしいバーでマリファナを 吸いながら毎日を送っている頃だった。ジェムは喜んでその申し入れを受けることにした。

別れの日、クラブの馬場に立つジェムのもとに、シリウスは全速力で駆け寄ってきた。ジェムとシリウスはひとつになって 障害物を次々に越えた。どうしてこの一体感がオリンピック予選の場で出せなかったのだろうと悔やまれるような跳躍だっ た。また会えるさ、舞台が終わったらすぐに戻ってくる。そう声をかけながらジェムはシリウスに飼葉を与え、ロスからニ ューヨーク行きの深夜便の人となった。

あっというまにニューヨークでの半年が過ぎた。酷評することが劇評だと信じて疑わないニューヨークタイムズが、奇妙な 存在感と、好意的な劇評をしてくれた。ニューヨークの舞台が評判になり、ロスの演出家から新しい役が与えられ、ジェム・ ロビンソンは性格舞台俳優として再びロスに戻った。

通い慣れた乗馬クラブにはシリウスの姿がなかった。シリウスはどこかと問い詰めるジェムに、クラブの支配人の言葉は覚 めていた。

「結局、血統馬でないと駄目だね。種馬にもできないし、このままではいつか薬殺の運命だった。そこへ日本人が買い付け にきてね。レベルの低い国でならシリウスもまだまだ闘える。馬術馬としてその生涯を全うするのがシリウスにとっても本 望だろうと手放したよ」

自分のクラブチームに勝利を確実にもたらしてくれる血統馬しか支配人には興味がなかったのかもしれない。どうして俺に 譲ると言ってくれなかったのかと、ジェムは支配人に詰め寄った。シリウスを買うだって。あんたにシリウスを買い取る余 裕などあるのかね。シリウスは血統馬でないと言ってもれっきとした馬術馬だ。ワスプでもないあんたが馬を持とうという のはお門違いなんじゃないかという蔑みの笑みが、支配人の表情には満ち満ちていた。確かに舞台のギャラではシリウスな ど買い取る余裕はなかった。それならひと目、日本に行く前に別れを交わしたかった。もう会えないのだと思うとジェムは いてもたってもいられなかった。

そんな時に、舞台が終わった楽屋に一人の日本人が訪ねてきた。「アイ・ウオント・ユー・マイ・コマーシャルモデル」と いう訳のわからない言葉をその日本人は何度も吐き続けた。日本にいけばシリウスにもう一度一目会えるかもしれない。ジ ェムは薬師寺海渡の強引な申し入れを受けることにした。




「ジェムの願いをなんとか実現してくれ」

「馬のことはまったく知りませんが、とにかくあたってみます。でも時間がないのでどこまでやれるか」

「やれるかではなく、やるんだ」

冷たく言い放つ大田黒に順一は小さくうなずき返した。

ジェムが日本にやってきたのは月曜日だった。火曜日から金曜日までの四日間は六本木のスタジオで撮影。土曜日だけがジ ェムに与えられた唯一の日本の休暇だ。この五日の間に撮影の制作進行をこなしながらシリウスを見つけることができるの だろうか。順一にはまったく自信がなかった。

撮影そのものは順調すぎるくらい順調に進んだ。スタジオの巨大なホリゾントにモダンアートのイラストレーションが何点 も描かれ、ジェムはその前でその端正な横顔を見せるだけでよかった。

シリウスはなかなか見つからなかった。電話帳をひいてみて驚く。東京都内だけでも乗馬クラブは三十五もあった。 職業別電話帳を手元において、撮影の美術セットが決まり、照明作業が始まるわずかの時間に順一は電話をかけまくった。 撮影に入ってしまえば、制作進行なんていうなんでも屋は、カメラマンの横に張り付いていなければならない。ちょっと右 肘の皴直してという演出家の一言にジェムの側に飛んでいき、袖口の皴を急いで直す。はい額に汗と言われれば、スポーツ のあとの雰囲気をだすために、霧吹きでジェムの額に軽く水滴を吹き付けつける。スタッフの弁当の手配。特別注文したハ ンバーガーを見て、ジェムがベジタリアンなので肉は食べないと突然言いだせば、六本木にある明治屋までサラダとノンオ イルのドレッシングを買いに走る。そのたびにシリウス探しは中止になる。都内の電話帳の三十五番目の乗馬クラブに電話 をかけ終わってもシリウスはいなかった。

水曜日の朝、順一は永田町にある国会図書館にでかけ全国の電話帳をひっくり返しながら百近い電話番号をノートに書き写 し続けた。図書館に複写機など置いていない時代だ。万が一順一が番号を書き間違えたらジェム・ロビンソンは永遠にシリ ウスに会えなくなる。そう思うと、小さな電話番号をただ写すという行為にもかなり神経を使った。最後の鹿児島県が終わ るころにはもう午前中が過ぎようとしていた。その間に順一は何度もスタジオの進行具合を確かめ、図書館からスタッフの 昼飯と、ジェム・ロビンソン用のライ麦パンのベジタブルサンドイッチの配達の手配をした。

午後スタジオに戻るとスタジオの入り口にある公衆電話に十円玉を何百枚と用意し、順一は控えてきた全国の乗馬クラブに 北海道から順番に電話をかけ続けた。撮影の雑用の指示ごとにそれは中断された。今だったら問い合わせの携帯電話をもっ たままスタジオ作業ができただろう。全国の乗馬クラブに同じ文面のファックスをいっせいに送信し、返事を待つ間仕事に 集中するなんていう芸当も可能だっただろう。しかしそんな時代が自分の生きている間に来るとは、当時の順一には到底考 えられなかった。こんなことをしていてもシリウスは決して見つからないのでは。いらいらした気持は仕事に現れる。指示 に的確に反応できない順一はステージの前でミスを繰り返し、その度にカメラマンの沢渡の怒声をあびて、照明の熱さと恥 ずかしさと、情けなさで大汗を流し続けた。

水曜日の夜になっても全国の乗馬クラブの半分も問い合わせは終わっていなかった。

お疲れさん、そんな演出家の一言でその日の撮影が終了する。ジェム・ロビンソンが順一のところにやってくる。

「シリウスは見つかったかね」

順一は力なく首を横に振る。ジェムの顔が落胆で曇る。

「明日にはきっと見つかりますよ。いや順一がなんとしてもきっとみつけますよ。心配しないで。ジェム、今日はバーで楽 しんでください」

大田黒が慰めにもならない言葉をかけた後にちょっと卑猥な笑みを一瞬浮かべ、ジェム・ロビンソンにウインクをする。ジ ェムは用意されたタクシーで夜の街に消えた。まだ若かった順一はジェムが特殊な男たちが集まるバーに消えてたなどと考 えることもなかった。ハバァナイス・ナイト。ジェムに明るく声をかけて戻ってきた大田黒の顔が瞬時に暗い顔に変わった。

「順一こんなことをやっていてあと二日でシリウスは探せると思うかね」

「わかりません。あと六十ほど残っています。つぶしていくしかないでしょう」

「つぶしていくしかない?電話をかけることしかないのか、順一に出来ることは」

「じゃなにをすればいいんです」

「馬鹿、それを考えるんだよ、それが坊やの仕事だろうが」

CANの派手なブレザーコートのポケットに両手を突っ込みながら、大田黒はスタジオの中をいらいらしたように歩き回る。 買いたてなのだろう、歩くたびにリーガルの革靴がぎゅうぎゅうと軋む。そしてその音がふと止んだ。

「おい順一。俺たちはなんか勘違いをしていないか。シリウスを買い取ったのはどこかの乗馬クラブだと誰が決めたんだ」

「誰が決めたって。シリウスはサンタモニカの乗馬クラブから日本に売られたというジェム・ロビンソンの言葉を信じて、 僕は乗馬クラブを調べているだけなんですけれど」

「だからそのサンタモニカの乗馬クラブというところから乗馬クラブを当たっているのが間違いじゃないのか」

「間違いというと」、順一は唇を尖らせた。

「俺たちは民間のクラブを当たっている。でもサンタモニカのクラブにはオリンピックにでる血統馬が目白押しだったのだ ろう。シリウスはオリンピックにでるほどの馬じゃなかった。で、日本に売られた」

「民間じゃなくオリンピック団体にというのですね」

「そうJOCの中に馬術関係の団体がないか、すぐ調べるんだ」

順一は大田黒にいわれるまま再び電話帳をもってきた。急いで日本オリンピック協議会の項目を調べた。確かにそこに日本 馬術連盟という団体があった。さっそく電話をしてみたがすでに職員は帰った後だった。




木曜日の朝、すぐにでも連盟に電話をしたかったが大掛かりな美術セットの仕掛けに手間取り、予定どおりに仕事が進まず、 シリウスの問い合わせどころではなくなった。時間ができたのは美術の仕掛けがようやく完成し照明の準備に入ってからで、 すでに午後二時を過ぎていた。

「ここ二年ほどの間に日本馬術連盟では、サンタモニカの乗馬クラブからシリウスという馬を、買入れてないでしょうか」 順一は祈るように電話をかけた。ちょっとお待ちくださいというとその後随分待たされた。電話が切れてしまったのかと不 安になったころ、相手の声がのんびりと聞こえてきた。

「私では判断しかねましたもので、遅くなりました。私どもは馬術の競技団体なものでして、競技の勝敗に影響することに もなりかねませんので、お答えはできないと上の者が言っております」

またシリウスの糸が切れそうだ。順一は必死だった。

「シリウスの行方を言うことが勝敗に影響するって、そんな馬鹿な。僕はどこかの国のスパイでもなんでもなく、ただ馬の 行方が知りたいだけなのです」

ちょっとお待ちくださいと再び待たされる。

「あの、会長がいいと言えば調べられるだろうということなのですが」

「じゃ会長をお願いいたします」

「アマチュア団体なものですから会長と言ってもボランティアでして、こちらには常駐しておりません。会社の電話番号を お伝えしますので、そちらにお問い合わせいただけませんでしょうか」

順一は困り果てた声をだす女性職員に感謝しながら、会長の勤務先とその電話番号をメモした。そしてようやくその名前が 財界でもかなり有名な人だと気づいて、電話をしたものかどうか躊躇してしまった。シリウスを探すにはその糸しか残って いなかった。プライベートなことなのだ。会社よりも自宅にかける方が少しは気が楽だった。夜になるのを待って、順一は 少し緊張しながら電話帳で知った番号にダイヤルした。

「あいにく主人は本日は経団連のほうにでかけておりまして、帰宅は夜の九時を過ぎるんじゃないかと思いますの。ええ、 何時でもかまいませんからお電話いただければ結構でございましてよ。年寄りと言いましても夜は十二時まではいつも起き ておりますから」

品のいい老夫人の声に救われた。十時を回ったところで再び緊張しながら受話器を取った。財界の宴席があったのだろうか、 相手の声は酔っていた。

「シリウス、シリウスと。そんな馬がうちにはいたかな。ちょっと待ってくれ。うちの連盟所属の馬の名簿を持ってくるか ら」

その著名な財界人は、新聞で見る厳めしいイメージよりもずっと気さくな人間のようだった。しばらく待たされて再び相手 は電話口に戻った。

「やっぱり残念だがシリウスという名前の馬はいないな」

ジェム・ロビンソンとその馬の関係はこれで終わったのだ。後一日、かけ残した全国の民間乗馬クラブへの問い合わせをで きるだけしてみるしか、他に手はないだろう。がっかりしながら夜遅く電話をかけてしまったことを詫び電話を切ろうとし た時だった。

「で、どうしてあんたはそのシリウスを探そうとしているのかね」

順一はジェム・ロビンソンとシリウスの関係を手短に話した。サンタモニカの乗馬クラブといった時、相手の声が変わった。 「私も確かにサンタモニカに馬の買い付けで同行したことがある。待てよ、待ってくれ。そのシリウスというのはもしかした ら白馬ではないかな」

ええ、白馬ですという順一の答えに、電話の声の主は酔った声を興奮させた。

「思いだした。シリウスという名前より日本名がいいだろうとオーボシと名付けた馬が確かにいる。私の田舎ではシリウスを 子供の頃からオーボシと呼んでいたんでね。待ってくれ。もう一度馬の名簿を探してみるから」

電話口に再び戻ってきた相手の息が弾んでいた。

「確かに私の記憶のとおりだ。オーボシ号は今、佐賀県の馬術連盟に所属している。そのジェム・ロビンソンとかいう男がオ ーボシ号と一目会えるといいんだが」




金曜日はポスター用の撮影だけが残っていた。フィルムプロダクションの制作進行としての順一の役目はほぼ終わっている。 じっくりスタジオから電話をかけられることと、シリウスが佐賀県の連盟に属していることがわかっていたので、順一の気分 は少し落ち着いていた。

土曜日にオーボシ号に会う約束を取付け、ジェム・ロビンソンの飛行機の予約をとるのが順一に残された仕事だった。 連盟の会長の紹介で電話をしているのだがと切り出すと、女性職員の応対の声が突然丁寧になった。そちらにオーボシ号とい う白馬の馬がいるはずなのですがと順一は勢い込んで聞いた。

「ええ確かにオーボシ号はうちの県に所属している馬ですが」

「明日唐津に伺いますので会わせてもらえませんでしょうか」

相手は自分が大きなミスをしてしまったかのように小さな声で謝った。

「それが今こちらにはいないのです。すいません。わざわざお電話をいただきながら」

またシリウスの糸が切れてしまった。順一は最後の望みにすがるように聞く。

「今こちらにいないって、じゃシリウスは、いやそのオーボシ号は唐津じゃなくどこにいるんです」

「多分いまごろ東名高速を走っていると思います」

順一は混乱した。高速道路上で馬のレースがあるのだろうか。

「いえ実は明日、東京の馬事公苑で競技会がありまして、トラック輸送でそちらの方に向かっているのです。午前中には馬事 公苑にオーボシ号は入ると思いますが」

ここ一週間探しに探していたシリウスが東京に向かっている。順一は偶然に驚くとともに感謝した。カメラマンの沢渡公明が 撮影しているにもかまわず順一はスタジオに駆け込むと、シリウスが見つかった、ジェムに会うためにこちらに向かっている と、ブロークンな英語で叫んだ。ジェム・ロビンソンの表情が輝く。そしてこぼれるような笑みに変わる。その瞬間を沢渡の カメラがすかさずとらえた。鈍いシャッター音がスタジオに響き、ストロボが光る。

しかし落胆はすぐにやってきた。

「あいにく私どもの競技会には、関係者以外の方の入場はお断りしております。馬術というのはそれだけ由緒あるものでして。 それに明日の競技会は来年度のモントリオールオリンピックの国内選考会を兼ねている関係で、一般に公開する予定はござい ません」

丁寧な言葉使いだったが、馬事公苑の職員の声には頑なな意思があった。

順一は金曜日一日をかけて馬事公苑関係者を探し続けた。昨夜暖かく応対してくれた財界の要人にも再び電話をした。が彼は 日米経済折衝の会議のためにその日海外に旅だっていた。コマーシャルで馬を撮影したことのあるスタッフを探しまくる。し かし馬事公苑の撮影許可をとったものは誰一人いなかった。照明のスタッフたちには競馬ファンが多い。撮影の合間に短波ラ ジオを聞きながら熱くなっているスタッフの顔を思い浮かべながら次々に問い合わせをする。なあ順一、俺たちオケラ街道の 競馬と馬術は違うんだぜ。こっちはすっからかんになるのが落ちのギャンブル。あっちは上流階級の由緒正しいスポーツなん だと大笑いされるだけだった。

同じ東京にジェム・ロビンソンとシリウスがいるのがわかりながら、彼らは出会えぬまま再び別れなければならないのか。

「はいオーケィ。お疲れ様、撮影はすべて終了」

カメラマンの沢渡公明が大声で言った時には午後四時を回っていた。とうとう順一はシリウスに出会えるルートを発見するこ とができなかった。順一には重い疲れだけが残っていた。それに比べて撮影が終わった解放感からだろうか、沢渡の声は明る かった。

「しかしあのジェムの表情は最高だった。きっとこのキャンペーンのポスターの絵は順一がスタジオに飛び込んできた時の写 真になるよ。あれはいい顔だった。で、シリウスが東京に向かっているというのはなんのことだ」

順一は今までのいきさつを簡単に沢渡公明に話した。

「そうか。それでジェムはあんないい表情をしたのか。よかったな。明日はシリウスに会えるわけだ」 順一は馬事公苑からの許可がおりないと情けない声で言った。沢渡は小さく舌打ちし、あいつららしい権威主義だなと つぶや くと、しばらく考え込んでしまった。やがてうまくいくかどうかわからないが順一に任せてくれと、電話を取り上げた。

「すいません。恐れ入ります。沢渡と申しますが父はいますでしょうか」

ジェム・ロビンソンに最後のつきが残っていたとしたら、沢渡公明の父親が警視庁騎馬隊の隊長をしていたことだろう。たちま ちのうちに明日の競技会には三人だけ馬事公苑に入場が許された。ジェム・ロビンソンは覚えたての日本語で何度も「アリガト ウ、アリガトウ」を繰り返した。

明日はこのカメラでジェムとシリウスの記念写真を撮ってくれと、沢渡公明は順一の手の中に彼のカメラを置いた。そしてその カメラをゆっくりとなでる。

「おかげで何年振りかで親父と話したよ。権威主義者にとって俺がカメラマンなんて水商売に就くなんて許せなかったんだろう。 卒業以来勘当同然だったんだ。それがこんなきっかけで今度また会うことになった。これもジェム・ロビンソンとシリウスのお 陰だ」

試合当日、ジェム・ロビンソンと大田黒、そして順一の三人は馬事公苑に向かった。カリフォルニアの抜ける空を思>わせる、湿 度の低い透き通った青い空が東京の街にめずらしく広がっていた。

そしてその馬は現れた。他の馬を圧倒するかのように凛々しく、その馬は馬場に立った。

「シリウスだ。私のシリウスだ」

ジェム・ロビンソンが思わず囁く。そう、そこにはこの一週間順一たちが探し続けていたシリウスが、確かにいた。

競技が始まる。シリウスは次々に障害を華麗に越えた。順一たちの席の前の障害が最後の跳躍だ。細い足首がきれいに上がる。 そして前脚を思いきり蹴った。障害のはるか上をシリウスは駆け登っていった。後ろ脚がその高さについていけるかが問題だ。 ついていけなければ障害に脚をひっかけて落下してしまう。順一にはシリウスが高く脚を蹴り過ぎたように見えた。

「いけシリウス。跳ぶんだ、もっと高く」

ジェム・ロビンソンの叫びが届いたのだろうか。シリウスは流れそうになる後ろ脚を思いきり引きつけた。障害を高らかに越え 、美しい前傾姿勢で馬場の砂地遠くに着地した。みごとな優勝だった。モントリオールにはシリウスが行くことになるだろうと、 佐賀県馬術連盟の役員は興奮しながら語った。

試合が終わりパドックに引き上げてきたシリウスは、そこに立っているジェム・ロビンソンを見つけると、軽いギャロップで駆 け寄った。ひひーんと嘶くとその鼻をジェムの頬にすりつけていく。ジェムが慈しむようにシリウスの長いたてがみを撫でる。 その手はシリウスの腹に伸びた。それはまるで恋人たちのような愛撫だった。ジェム・ロビンソンの涙はその端正な頬をつたっ て落ち、砂地を濡らした。

せっかくだからシリウスに乗り障害を跳んでみないかと言われて、ジェムは嬉しそうにシリウスに騎乗した。ゆっくりとパドッ クを駆ける。モデルの修業にと始めただけあって、ジェムの垂直に伸ばした背はシリウスの上で少しも崩れることはなかった。 そして人と馬は一体になって障害の馬場に立った。ジェムがウエスタンブーツの踵でシリウスの腹を蹴ると、馬は最初の障害に 向かって駆けだした。午後の遅い斜めの光を受けて、その白毛を金色に発光させながら、シリウスは先ほどの試合以上に高く跳 躍し、そして前傾姿勢を崩すことなく遠くに着地した。順一は沢渡公明から預かったカメラのシャッターを夢中になって切って いた。午後の光の中で彼らが跳ねる。駆け落ちる。そして再び馬と人は一体になって沈む残光に向かって駆け登った。 出国審査場で、ジェム・ロビンソンは順一の手を硬く握ると「いつか必ずシリウスを買い戻しに日本に帰ってくる」と言った。

「買い戻せるさ、ジェムなら」

「その日のために私はがむしゃらに働くよ」

出国審査場にジェム・ロビンソンが消えていく。順一は硬い握手で痺れてしまった右手をその背に掲げた。

照明の準備はいっこうに進まない。写り込みという一番厄介な問題を抱えて、ああでもないこうでもないと試行錯誤が続く。 かばんの中の携帯電話が鳴る。大田黒からだった。

「新聞を読んだかい。ジェム・ロビンソンが死んだ。事務所に電話したがいなかったので携帯に追っかけてみたんだが」

「撮影中なんです。スタジオの片隅で死亡記事を読んでショック受けてたところです」

「悪い、じゃ切る」

「いいえ、かまいません。朝からまだカメラはワンカットも回っていないんですから」

「新聞記事読んであわてて薬師寺のとっつあんに電話したよ」

「薬師寺さんなんておっしゃっていました」

「それがね、嫌になる。朝から完全に酔っ払ってる。ジェムって誰と言うんだ。まったく覚えていないらしい」

薬師寺海渡はこれが今度のキャンペーンのメイン写真だと言って、ベタ焼きの中から、順一が撮った馬事公苑でのジェム・ロビ ンソンとシリウスの写真に赤鉛筆で大きく丸印をつけた。「だって、沢渡さんの撮った写真でなくていいんですか」と唇を尖ら せながら問う大田黒に「いいんだ。沢渡なんかは今の時代しか切り取れない男だ。ほらこの写真を見てみろ、そろそろ流され出 してきた。なんにも感じないじゃないか」

冷たく言い放つと順一の方に顔を向け薬師寺は真剣な表情で言った。

「順坊、そろそろ演出の仕事をやってみないか」

「ええ僕が演出ですか。企画もなにも勉強していないし」

突然の薬師寺の申し出に順一はしどろもどろだった。

「できるさ。この写真を撮れるんだから。ここには人の心を揺さぶるなにかがある。それでなくては演出家もカメラマンも長く 続かない。順一ならいいコマーシャル演出家になれる」

なんとなく入り込んだコマーシャルフィルムの制作現場だった。自分になにが出来るのか、あるいはなにになれるのか漠然とし た不安を抱いたまま五年が過ぎていた。薬師寺海渡の推薦とあってその後たて続けにCANのコマーシャルの演出を順一は任さ れた。CANのコマーシャルが話題になるにつけ順一の仕事は増えていった。フィルムプロダクションから独立しフリーの演出 家として二十年近くを過ごしてきた。自分ではわからないが、薬師寺の言ったとおり順一の演出には人の心を揺さぶるなにかが あったのかもしれない。

あんなに若者の間で教祖的人気のあった沢渡公明の名前もいつのまにか聞かなくなった。あまりの個性の強さが新しい時代と交 差しなかったのかもしれない。あるいは変わる時代に対して沢渡の写真は変わることを拒否し、陳腐化していったのだろう。 沢渡なんかは今の時代しか切り取れない男だと断言した薬師寺海渡までもが落ちていくとは順一は考えもしなかった。薬師寺海 渡の感性が時代と合わなくなると共に、CANは倒産してしまった。倒産後の薬師寺に十年以上前に街でばったり出会ったこと がある。一度に十歳以上老けてしまったようで、松川さんそのうち一緒になにかやりましょうよと力なく言われた。順坊、順坊 といつも怒鳴られていただけに別れた後もいつまでもつらいものが残った。その薬師寺が今では朝から酔っ払った毎日を送って いるという。「覚えていないんですか、ジェム・ロビンソンのこと」

順一は深い溜息をついた。

「しかしジェムもエイズだったとはな。こんなことなら俺のやっていたエイズキャンペーンに出てもらうんだった」 大田黒はCANが倒産すると同時に広告代理店に移っていた。なかなかのビジネスマンだったし、海外にも強いクリエイティブ・デ ィレクターとして活躍している。つい最近も日本で初めてのタレントを大動員したボランティアのエイズキャンペーンを仕掛け、 評判をとっていた。ジェム・ロビンソンの死に対しても、こんなふうに冷静に悔しがる打算的なところが、強かさであると同時に、 順一が決してこの男を好きになれない理由でもあった。

「新聞記事を見て思いだしたんだがな、あの時順一が撮ったシリウスのポスター持っているかい」

「いえとっくになくしてしまいました。自分の演出作品集さえ持っていない人間ですから」

「またどうして」

「コマーシャルを自分の作品と考えていないんでしょうね。頼まれた仕事を次々にこなしているだけで」

「なるほどね。自己主張がないから二十年演出家としてもったというわけだ。ところでジェム・ロビンソンは、シリウスを買い 戻したんだろうか」

大田黒は自分自身にたずねるように言った。

「ええ、僕もずっとそれが気になってまして。たった一人でやった、坊や時代の仕事でしたから。でもわざわざ調べる時間もな くて」

「賭けをしないか」

「どんな賭けです」

「ジェム・ロビンソンはシリウスを買い戻したか、戻さなかったかという賭けさ」

「大田黒さんはどちらに賭けます」

「買い戻さなかった。流されていったのだと思う。俳優として有名になるにしたがって。で、エイズまで落ちていった」

「エイズになることは落ちることなんでしょうか。僕はジェム・ロビンソンが買い戻したという方に賭けますよ」 順一はなんだかむきになりながら答えた。

「お待たせしました。照明間もなく終わります」

照明チーフの声に弾かれるようにして順一は立ち上がった。

「太田黒さん、すいませんがそろそろ本番なもので。で、賭けの賞金はなんです」

「そうだな賭けに勝ったほうがこれからもこの業界で生き残れるというのはどうだい」

「なるほど、大田黒さんと僕の生き残りゲームですか。そうだそのうち賭けの結果を知る旅をふたりでしてみませんか」

「いいね、ジェム・ロビンソンのお通夜を兼ねた唐津の旅か。じゃそのうち」

この業界でそのうちという約束が果たされることがないのは、順一も太田黒もよく知っている。

「よーい、スタート」

松川順一の声で撮影が始まる。カメラが回ってしまえばすべてのことは忘れる。順一はジェム・ロビンソンのこともシリウスの ことも忘れて、ぴかぴかに磨き上げられたオールステンレスのキッチンウェアにすべてのことを集中した。

ラガービール発売百周年にあわせて、長崎市内に当時のロケセットを建て込んだ撮影はなかなか大掛かりなものだった。仕出し の俳優百人が明治の衣装で眼鏡橋を往き来する。順一は百人のそれぞれの動きを、川に突き出したクレーンから大声を上げて演 出する。最近は演出のための神経の持続力がめっきり落ちたのが順一にもわかる。ロケともなると照明の時間のかかり過ぎにす ぐいらいらしてしまう。

それでもどなりながら、走りながら一週間の予定の市内ロケが二日も残して、無事終わったのは五日目の夕方だった。撮影し続 けていた明治の世界と百八十度違うオランダを模した長崎のハウステンボスのホテルでのんびりと湯につかりながら、ぽっかり 空いた二日間をどう使おうかと考えあぐねていたときに、一か月程前に大田黒と交わした会話と賭けを思いだした。 湯に浸したタオルで顔をぬぐいながら「せっかく来たのだもの唐津に行ってみるか」と順一はつぶやいた。

唐津の海を見下ろす高台にその厩舎はあった。佐賀県の馬術連盟を尋ねるとシリウスの名前もオーボシ号の記録ももう残ってい なかった。もう二十年近く前のことだ。あの人なら知っているかもしれないと、今も厩舎の世話を一人続けている歯の欠けた老 人を教えられたのだ。

「オーボシ号ね。あれはいい馬だった。真白な毛並みをしていてね。夕陽の中で跳躍をするとその白い毛が金色に輝いた。あん な馬はもうでないだろうな」

老人は遠いところをみるように話した。

「オーボシ号はオリンピックに出場してね。確かモントリオールの時だったと思うけれど。この厩舎の自慢だった」 「そうですか。オリンピックにでたんですか」

ジェム・ロビンソンが聞いたらどんなに喜ぶだろう。順一は自分のことのように嬉しかった。

「そうそうオーボシ号が写ったポスターがあるんだ。忘れておった。厩舎のどこかにしまっておいたはずだ。ちょっと待ってく れんかね。すぐに探して持ってくるから」

長い時間待たされた。そして老人はポスターを海風にはためかしながら、厩舎から丘に息を切らして駆け登ってきた。

「あった、あった。押入れの下の方にしまってあったのをすっかり忘れてしまって。時間をとらせて悪かった」

そこにシリウスがいた。ジェム・ロビンソンがいた。CANのロゴマークがさりげなくデザインされている。

この一枚のポスターから演出家としての順一の新しい人生が始まったのだ。そして二十年以上演出家として生き続けてきた。 「どうや。いい馬だろう。こんな気高い気品のある馬はもうでんと思うな」

ポスターを見ながら我が子を自慢するように何度もうなずく歯の欠けた老人に順一は「ここに」と言って言い淀んだ。 ここにオーボシ号を買いに外人が来ましたよね。そう老人に問いただそうとしたが、もうジェム・ロビンソンの真実も、大田黒 との賭けもどうでもよかった。

二十年の間に薬師寺海渡と沢渡公明は落ちていき、ジェム・ロビンソンはエイズで朽ち去った。生き方は違うが大田黒慎平と松 川順一はまだ現役で広告業界に這いつくばっている。大田黒と順一のどちらが生き残るか。そんな賭けをしなくても自分の力で 生き残ればいい。

「ここに?なんです。言いだしておいて、黙ってしまうと気持悪い。覚えていることはなんでも思いだすから聞いてください」

「いや、ここに来てよかったと言いたかったんです。最近少し仕事でも迷っていたもんだから。でももう一度やっていこうと思 いましたよ。オーボシ号だってオリンピックに出たんだから」

「そうですか。よろこんでいただけると嬉しい。それにしてもいい馬でした。ほらこんな夕陽の中で跳躍するとその白い毛がき らきら輝いたもんですよ」

唐津の海に夕陽が沈もうとしていた。穏やかな水面にきらきらと最後の残光がどこまでも長く光る。優しい時間が丘をおおって いた。順一は老人に静かにあいつさつすると丘を下った。

おーい、おーいと老人が言いながらポスターを片手に息を切らせて丘を下ってきた。

「このポスター持っていきなさい。オーボシ号を覚えていてくださったお礼だ」

老人の手から順一の手にポスターが手渡されようとした一瞬、突風がふいた。

夕方の斜めの光の中でシリウスはその白い毛並みを黄金に輝かせ、海に向かって跳躍した。そして風にあおられシリウスは大き く燃え盛る太陽に向かって駆け登っていった。細い足がきれいに上がった。シリウスは流れそうになる後ろ脚を思いきり引きつ けた。そして美しい前傾姿勢で海に駆け降りていった。

「美しい馬だった。あんな気高い気品のある馬はもうでんと思うな」

老人と松川順一はポスターが落下していった遠くの唐津の海を見つめ続けた。

  
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