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馬場マコト業界全発言

[保健衛生]1993年10月号
公衆衛生キャンペーンの原動力とはなにか
小津安二郎の「父ありき」を見ていたら、笠智衆の懐かしい言葉に出会った。

「おーい、シャボンがないぞ」

「父ありきは」昭和17年の作品だから戦前から石鹸のことを「シャボン」と一般的に言っていたのだろう。戦後昭和24年の小津安二郎の作品「晩春」でも原節子が「私はお嫁にいかなくてもいい。ずっとお父さんの側にいたいの」と告白するあの有名な京都の宿のシーンの翌日、笠智衆は「シャボンをしなさい」と言って娘に洗顔をすすめる。

戦前、戦後の長い間、「シャボン」は石鹸のことを言うと同時に、「手を洗う、顔を洗う」という意味で、かなり一般的に使われていた。

私の母は、表から私が帰ると決まって言った。「シャボンしなさい」「シャボンした?」

私の生まれは金沢だから東京でも地方でも「シャボン」という言葉は一般的に使われていたのだろう。

なぜこの「シャボン」という柔らかい言葉は死語となり、石鹸という言葉だけが残ったのだろうか。そこに公衆衛生の原点があるように私は思える。

戦前、戦後の日本における衛生状態というものは確かにひどいものだった。小学生の同じクラスで突然同級生が欠席しだす。やがて一週間後に死んだと聞かされたのは決して一度や二度のことではなかった。生まれながらに腸の弱かった私は夏でも豆腐は一度暖めてから温奴で食べさせられたし、屋台は危ないと言って決して買い食いは許されなかった。それは私の家が特に神経質だったり、厳しかったわけではない。周りの家でも外食をする機会は誕生日やよほどの祝い事でもなければなかった。

それほど私たちの日常生活はいつも死と直結していた。そしてその死から自分を守るための唯一の手段が「手洗い」だった。だから誰もがいつも手を洗っていたと思う。学校に登校すると決まって手を洗った。家へ帰るとまず手を洗った。御飯の前には手を洗わないと食べさせてもらえなかった。その時に「シャボンしなさい」「シャボンした?」という言葉が使われたことは公衆衛生キャンペーンを考えるうえで重要なキーワードだ。決して押しつけるのではなく、平易な日常用語で生活習慣を普遍化していく。誰がいいだしたのでもなく、おそらく暮らしの中から自然発生的に生まれてきた、この「シャボン」という言葉の柔らかな響きが果たした、日常的公衆衛生意識への役割は計り知れないと思う。

「シャボン」が死語になったのは昭和30年代後半に入ってからだろう。安全管理、食品管理が徹底すると共に、日常生活と死は隣接するものではなくなった。死の恐怖を普遍化する信号として誰もが分かる平易な言葉「シャボン」が必要なくなったのである。

公衆衛生のキャンペーンの不幸はここに起因する。「死」を回避できるとすれば誰もがそれに無関心になってしまう。確かに誰も手洗いをきめ細かくしなくなってしまった。

結核がそうだ。死に直結していた時代には誰もがその恐怖におののき、こまめに布団を干し、文学の域にまでそれは昇華されたのに、ツベルクリンの登場と共にそれはとても時代遅れの病気になってしまった。そして今でも年間十万人の結核患者がでているにも関わらず、結核には誰も無関心だ。

今エイズさえもがその命運をたどろうとしている。

私は1992年、東京都が初めて行った「ストップ・エイズ・キャンペーン」を企画担当したクリエィティブ・ディレクターである。

厚生省とエイズ予防財団の防止キャンペーンはポスターを作ると、買春促進だ、女性蔑視だと言われ掲載中止に至るなど決して成功していなかった。エイズとなると男女の裸の写真が使われるなど、うわべの表現デザインに頼るためで、エイズの本質に切り込んでいないせいだった。

当時は日本のエイズ患者が急増していることもあり、テレビ、新聞はヒステリックに死の恐怖だけを報道していた。エイズを陰花植物のように扱い、解決のない恐怖だけをあおる新聞報道はさらなる差別偏見意識を増長するだけで、エイズ防止対策も共生意識も薄れると考えた。私は誰もが目を背けよう、無関心でいようとするものを無理矢理、茶の間の白日のもとにさらけだすことが重要だと考えた。

差別と恐怖と不治の病のイメージに満ち満ちたエイズに対し、無理矢理関心をもってもらうためには、タレントの力を借りるしかなかった。私は20人のタレントが一挙に立ち上がることが、エイズに対して言及するタレント生命を守ることになると考えた。立っていただく方は大物であればあるほどいい。同時に20人の方々には無償で立ってもらった。それはタレント生命をかけてまで、無償で立たざるをえないところまで、エイズ防止対策の危機的状況がきていることを感覚的に理解してもらうための演出であった。

エイズ防止キャンペーンに対して20人のタレントが「いま、止めなければ」というキャッチフレーズのもと、無償で一気に立ち上がったという事実は、当時大変なインパクトととして世の中に受けとめられた。現在唯一のワクチンがコンドームであるということをはっきりと言い切った表現が、都のエイズ対策への不退転の決意として好意的に受けとめられもした。連日、テレビでは報道・芸能ニュースとしてエイズ防止キャンペーンのコマーシャルを東京都の放映回数以上に流した。正しくコンドームを使い、感染防止さえすれば、エイズは防げられる病であることが瞬時のうちに認識された。私が仕掛けたこの戦略は成功したようにみえた。

そして四年。エイズさえもが風化しようとしている。私はエイズ防止キャンペーンの企画者として深い疲労感の中にいる。あんなに四年前に過熱したエイズ意識は人々の中から急速に失われつつある。エイズワクチンはまだ開発されていないが、エイズにかからないコントロールができるとわかったとたん、多くの人々の中でエイズは死の病ではなくなった。新聞は薬害エイズの犯罪立証にやっきであり、それは私たちをとりまく病気ではなくなってしまった。キャンペーン時に一気に増えたエイズ検査の受診者は年々減っている。そしてエイズ感染者は確実に増えている。そして次なるエイズ防止の広告企画を打ち出しても、誰にも届かないジレンマの中にいる。

そしてこの夏、O157という死の恐怖の前に突然「手を洗う」という意識が人々の中に突然戻ってきたことは象徴的なことだ。

「死の恐怖」しか保健公衆衛生の原動力になりえないのだろうか。。
  
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