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馬場マコト業界全発言

[TCC会報]1997年1月号
コピーライターへの手紙
私はその会社がどんなことをする会社なのかも知らず入社を決めた。送られてきた会社案内がなんだかとても自由で生き生きしているように見えたからだ。だからその会社に入ってなにをしたいという想いもなかった。入社式の日その社長は「君にはコピーを書いてもらう」と言った。コピーはとるというはずなのに、この人はなぜコピーを書くというのだろうと思っていると、君の配属先は企画制作部でコピーというのは原稿を書くことだと言われた。自分に制作の資質があるとも原稿を書けるとも考えたことのなかった私は戸惑った。そして次の日から突然狂ったように原稿を書かなければならなかった。取材を徹底的にしたドキョメンタリーな四百字詰め二百枚なんていう入社案内を私は週に二社平均書き続けた。コピーの学校に通うことも、先輩からテニオハを教わる暇もなかった。私は上司のコピー課長と机を並べてそれぞれ別々の会社案内を競うように書き続けた。何百枚という原稿を来る日も来る日も書いても仕事はなくならなかった。毎日朝までひたすら書き続けるという生活を二年間送った。やがて自分の原稿で会社を選び、人生を決めてしまう人々がいることに疲れを覚え、求人広告より商品広告の世界へ移ることを決心した。退社の挨拶にいくと私にコピーを書けと言った社長は「うちは今はとても広告を出すような会社じゃないけれど、いつかは広告活動をしてみたいと思っている。その時は君に頼むからそれまで力を貯めておくように」と言って当時の金で五十万円の退職金を手渡してくれた。

なりたくてなったコピーライターではなかったが、いつかあの社長から声がかかるようになりたいという想いだけで、新しい商品広告の世界を私は歩みだした。それまで二百枚以上の原稿を書き続ける日々に比べると15秒の世界のコピー数はこんなに少しでいいのかと思うくらい気抜けしたが、すぐに短い文章を書くことの難しさを知った。

十年がたっていた。その十年の間に私が始めて就職した会社は肥大し、さまざまな業種に触手を伸ばしていた。企業広告をすることになり私の所属する広告代理店を含めて、四社企画競合が行われることになった。私は五十万を手渡してくれた社長と、今では宣伝広報担当役員になっているもと上司のコピー課長の前で、この企画で恩返しをしたいと願いながら、自分の企画をプレゼンテーションした。そして私の「情報は人間を熱くする」というドキュメンタリーフィルムを使った提案は受け入れられた。フィルムが完成して企業広告が放映されて一週間目、朝日新聞を開いて驚いた。株式上場にからむスキャンダルだった。その日から疑惑は経済界、政界を巻き込んで肥大していった。

私の提案した企業広告の放映はすぐに打ち切られた。そして私に君にはコピーを書いてもらうからといった江副浩正は石持て追われるようにリクルートを去った。

リクルートに提案したドキュメントコマーシャルはやがて私のひとつのスタイルになった。そして今でも思う。あの来る日も来る日もただ何百枚という原稿を書き続けた二年間が私の広告人生の基礎体力になったと。千本ノックを受けるように、コピーライターは何百本のキャッチコピーを書き続けるしかないのだ。書いて書いて書き続けたものだけが、やがて自分のスタイルを身に付けることができると私は確信をしている。
  
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