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馬場マコト業界全発言

[CM通信]1997年9月19日号 インタビュー
世界基準は万能ではない
今年カンヌで1本も入賞しなかったことで、業界内にある種の危機感が生まれ〈このままではいけない〉という意見が盛り上がっている一方で、〈いや、このままでいい〉という意見も確かにある。今年春、東急エージェンシーのクリエーティブ局長に就任した馬場マコト氏は〈日本の広告マーケットに合わせた結果が今のCM。カンヌの結果で日本のCMを語るべきではない〉という。馬場氏に聞いた。

ボクは〈それでいいじゃないか〉派。
日本が経済国として世界に確固たる地位を築いているいま、広告が経済活動の一環であることを考えれば、我々は〈日本の広告クリエイティブが世界に通用するか否か〉を危惧するよりも、堂々たる日本のマーケット形成の一端を担っていると自負するべきだと思う。カンヌの入賞作品を見る限り、それぞれの国で経済の根幹を背負ったCMが受賞しているとは思えないし、日本の広告は経済行為として立派に成立している。ボクは〈カンヌに入った、入らなかった〉という事態を積極的に論じるべきではないと思うし、入らなくても〈それでいいじゃないか〉と考える。

"茶の間"という表現にも疑問。
〈広告=茶の間〉という表現にも、いささか疑問を感じている。この20年で日本の消費構造は明らかに違ってきた。今や、消費者=コンビニ(流通)であり、その延長に茶の間がある。《広告が商品力をつくる》という概念は過去のものであり、これからは《商品力のあるものしか広告を打つことができない時代》になってきたのではないだろうか。つまり、流通の変化に合わせてコミュニケーションが変化する時代に、その流通が独特な日本のコミュニケーションもまた、独特にならざるをえない環境があるということ。大仁田厚と前田明を戦わせて、どちらがプロレスラーとして強いと言っても無意味なように、カンヌというプロレスのリングにスタイルの違う広告レスラーが上がって勝った負けたを言うことは意味があるのか。それはここ数年ロンドン広告賞の審査員をしてきて痛感した。ボクがいいと思う広告はその国の経済機構のどのような位置で競合状況はどうある中で語られているのか全く分からない。広告がアイデア的に優れている、技術的にすごいという自分の観点でしか選べない。広告が売りに寄与したかどうかの視点が欠落する以上、広告の本質でない視点でしか選べない。

だから日本の広告はダメにならない。
ルールの違う土俵で戦ったところで、負けたから日本の広告がダメになるとは思わない。カンヌに入るということは、広告クォリティーの基準になるのだろうか。カンヌはそんなに絶対なのかとボクは思う。それよりも、メディアが刻々と変化し、流通が変化しているのに、広告だけが放送開始された頃の発想と変わらないようなら、CMをつくる人たちはいずれ、"古典芸能作家"になってしまうだろう。

広告はクリエイターの意志ではなく、広告主企業トップの気持ち。
とくに最近は、今まで以上に広告主企業のトップの判断が広告に反映されているようだ。ブランド・イメージも、トップの意志で決まってくる。ジャーナリスティックな視点で注目された、ベネトンの一連の広告にしても、オリビエ・トスカーニの才能ではないと思う。むしろブランドの価値をファッションよりジャーナリズムに置くところで賛同を集めたのは、ベネトンのトップの最終的な判断である。批判を覚悟で実行する意志が広告主トップにあれば、先鋭的、先進的な広告は日本にも成立する。もし、日本の広告が世界に遅れているというのであれば、日本企業トップの意識が立ち遅れているということになるだろう。

今の日本の広告がいいか、は別問題。
だからといって今の日本の広告がいいかどうかは別の問題。ある外資系広告主に、日本のタレントCM、海外のビッグネームを起用したCM、モノ中心のCM、という3タイプの日本CMを整理して見せたことがある。当然だが、はじめの2つのタイプはまったく理解されなかった。カンヌもこの状態にある。つまり、今の日本の広告に問題があるとすれば、我々が商品力を語るところで勝負していないということだ。

だから、東急Agの得意技を示したい。
これらの現象をふまえ、東急エージェンシーでは商品に近いところで表現することを目指している。たとえば、プレゼンを行う際にはタレント案を1案盛り込むと同じように、モノ寄りの案を必ず1案盛り込むこと。それを徐々に拡大しながら当社の特徴にしていきたい。タレントやイメージで語るのではなく、商品のチカラそのものを語ることで勝ち抜きたい。
  
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