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馬場マコト業界全発言

[ACC会報]1998年4月号
対談 日本のCMはどうあるべきか 広告はビジネスかクリエイティブか?
小田桐 昭(電通)VS 馬場 マコト(東急エージェンシー)
(司会=中尾良宣ACC賞審査委員会副委員長)
CMの表現の幅が狭くなっていることが問題

司会 現在、グローバル・スタンダードが盛んに言われていますが、日本のCMは少し軌道が外れているという声が聞こえてきます。具体的には、カンヌで日本が賞を取れなくなったことがあります。もうカンヌに学ぶことはない、と言われた時代もありましたが、ここのところ日本のCMはわからないということで無視されています。カンヌで賞が取れない現状をどう考えればよいのでしょうか。

小田桐 当社にも、どうしてカンヌ、カンヌと騒ぐのかと言う若い社員もいます。現場の苦労も知らないでとか、個人の力では動かないものも周りにたくさんあるのに、無責任なことを言っている、という意見もあります。
カンヌで入賞することには、実は僕はあまり興味がありません。何も入らなくて世界から無視される"みじめさ"はありますから、入らないよりは入った方がいいですが、むしろカンヌがシンボリックに意味しているように、確実に日本のCMの表現の幅がすごく狭くなっていることが問題だと思います。
広告を取り巻く環境が、表現の幅を狭くしている状況が現実にあります。我々はいろいろな表現を持っていなければいけないし、アイデアは無限にあるはずです。それが、ひとつのパターンしか通用せず、横並びになっています。僕が一番恐れているのは、広告がつまらない、広告が効かないと言われることです。今、クライアントの方から実際に言われていることは、これだけ広告費を使っているのに、なぜ物が動かないのかということです。
日本のCMを外国の人が見て、テーマもアイデアもないし、わけがわからないと言っています。何をコマーシャルしようとしているのか、コミュニケーションしようとしているのか。全然広告以外の別な機能に見えているのです。その方が恐いですね。

広告は、商品と流通と広告で成り立つ経済の部分

司会 馬場さんは、カンヌなんかどうでもよいと雑誌に書かれていましたが、いかがでしょうか。

馬場 価値観が多様化し、得意先も多様化していますので、その中でそれぞれの方法論があって良いのではないかと思います。しかし、カンヌもロンドンもそうですが、審査の基準がわからないのです。僕は自分でいいなと思っても、バックグランドがわからないと納得できません。バックグランドを考えようと思っても、例えばアルゼンチンの広告はテクニックや技術で見るしかありません。ロンドンでは、審査員をやると同時に、僕の仕事が毎年のように入賞していましたが、表層的なものだけで審査して、その広告が販売にどう寄与したのか全くわかりません。広告は表現の善し悪しだけになってしまう。だから、今年から審査員も辞退しようと思っています。
どこで広告というもの、表現というものを見るのかで、おそらくポイントは違ってきます。
コマーシャルフォトのクリエイターが選んだベスト50がありますが、どうも僕の投票したものと選ばれるものが違うので、3年前からやめています。ACCにも当てはまるのですが、今回のベスト50ではアサヒビールのドライの一連のキャンペーンを誰も評価していません。
広告は、商品と流通と広告という中で成り立っている経済の一部分です。
そこに表現を持ち込むことがよいのかどうかということが、僕のスタンスとしてあります。
工場から出荷まで鮮度短縮成果をレポートするコマーシャルは、工場で作り出されるビール、シルバーカラーのトラックとその映像は、見事にドライ感を表現していました。
同時にアサヒが鮮度にチャレンジすることで、ビールの流れを変えるのだという企業意志になっていました。本来、このような企画を依頼されれば、企画者はそんな工場を描くなんてダサイ。この感覚でした。でも、そのことを明確に作品にした。僕はその年のクリエイターが選ぶCFの一番にしました。でも、誰も評価しなかった。これが、僕と他の クリエイターのスタンスが違うのじゃないかと感じた最初です。広告をある価値で永遠に位置づけると、状況も時代も変ってくる中で、挟まるのではないかと思います。
今、コンビニなどの流通が強いわけですから、そこでの表現は狭まります。メディアが変容し、何千万かけても流通から棚落ちしたらオンエアされない。そこでトライアルのものを作らざるを得なくなり、広告というビジネスが変容してきたのではないかという感じがしています。
しかし、それは固定はされず、変化していくと思います。僕は、コンビニのCMを担当している者には、利益率優先の企業のノウハウを学ばせてもらっている、そのノウハウは新しい広告表現になるはずだ、僕らの武器になる、という言い方をしています。

我々は少しビジネスに走りすぎた

小田桐 外国の賞は、バックグランドがわからないまま、正確に広告の機能を測る尺度がないですから、どうしても表現で選ばざるを得ません。そうは言っても、ある意味で成功したものが出てきており、全くそういうものがないわけでもありません。ただ、広告の機能そのものについて勘案しながらの賞は、なかなか難しいと思います。
今、一番問題なのは、広告の機能がどこにあるのか、広告のクリエイティブはどういう力があるのか、どういうことをしなければいけないのか、だと思います。僕は、クリエイティブ・ディレクションが広告を作る上ですごく大事な機能だと思ってきましたが、我々は少しビジネスに走りすぎたという反省があります。
流通がお茶の間かというと、僕はそうじゃないと思うんです。なぜ流通が強いか、なぜ流通を取り込まないと物が動かないかという話がありますが、それは商品が相対的に弱くなったからだと思います。新商品をどんどん開発して、当たらなければすぐに引っ込めるという時代がありました。どんどん単品にかける広告が少なくなり、ブランドが水っぽくなり、それから後は力が弱まって、結局、流通に並べてもらうことが一番大事になったわけです。つまり、我々がなぜ流通向けの広告を作らざるを得なくなったのかは、結局、自分たちの商品力を強くすることができないまま、流通にある部分を握られている現状があるからなのです。
それでは、我々の仕事は何かというと、商品力を強くしていくこと、ブランドを人々に強く植えつけることです。商品力が強ければ選んでもらえます。我々の仕事は、置いてもらうことではなくて、もっと多くの人たちがその商品を求めて買いにいくことです。スーパードライの仕事は、僕も認めていますが、ビールの会社の広告は、アサヒビールを後追いしています。それをみんながやる必要はないと思います。それは戦うことを放棄しているとしか思えません。
僕は今、自分の会社のことしか考えていないビジネスなんかもういいと言っています。もちろん、我々の仕事はビジネスに乗っていますが、ビジネスに引っ張られすぎて、広告の持っているもっと大きな力を自分たちで削いでいるのではないかと思っています。

商品と流通と広告のトライアングル

司会 馬場さんは、もう賞は白けたということがあるのですか。

馬場 正直言ってありますね。賞が何を基準に選ばれるのかということです。
確かに、みんなで投票していくわけですから、選者の基準があります。日本にそれしかないとしたら、それが日本スタンダードですが、どこで基準値をなされているのか、それぞれが明確になっていない気がします。
ACC賞は、日本でビジネスをやっていく以上、1万3千本の中から200本に入ることは非常に重要なことです。僕自身、毎年ACC賞に入ることを自分のクリエイティブの基準にしてきました。同時にスタッフにもそう言ってきました。ただ、その基準は明確になっていません。広告クリエイターたちの審査基準にはなっていますが、広告ビジネスの基準になっているのでしょうか。僕は、広告は表現だけではないと思っています。経済は、商品と流通と広告のトライアングルの中でしか成り立たなくて、広告だけを取り出して語っても意味がありません。
ACCの基準も、広告を商品、流通、広告のトライアングルの中で捉えていないのが気になります。表現の斬新さ、アイデアのユニークさだけを評価しています。例えば、プレイステーションが任天堂、セガを抜き、根こそぎ本質を変えていったのは、流通、広告、商品のトライアングル性の中です。また、この不景気の中で、東京電話も50万件の加入を目指していたのに100万件以上になり、設計図を倍に書き換えたのは、広告の大いなる成果です。表現的に良いか悪いかよりも、広告の機能を評価するかどうかが、気になっているところです。
ニューヨークフェスティバルには、売上げ効果の部門としてAME賞があります。広告の意味は何なのか、ここをはっきりしなければいけないところにきたのではないかと思います。

機能をもっと効率良くするのがクリエイティブ

小田桐 広告の機能を表現と仕組みに分けて考えているところが馬場さんにはありそうなので、その部分が僕と少し違うと思いますね。流通が消費者を意味しているのか、お店を意味しているのかわからないのですが、全てとは言わないにしても、我々のやっている仕事はお店に向かうのではなく、人に向かう仕事です。お店に来る人たちに物を買わせたり、考え方を変えさせる仕事をしているわけです。 ですから、経済行為をCMから抜いてしまえば、単純な表現しか残らないし、全く意味がありません。CMで何が面白いかというと、機能を果たしたかどうかです。それをもっと効率良くするのが、クリエイティブだと思っています。機能をもっと高めることがよいのであって、スケルトンみたいな広告は広告ではないと思うのです。骨組だけで動くものもあるかも知れませんが、それに素晴らしい肉体がつけば、もっと動きます。もっと多くの人を動かすことが、クリエイティブだと思います。前からGRPの問題もいろいろ出ていますけど、それは流通の論理です。刺激の量でスペースを確保するのは、本当に消費者に向かっているとは言えず、広告が機能しているとは言えないと思います。
そうは言っても、タレントとGRPを揃えれば物が動き、やめれば落ちるわけです。そのイタチごっこでは、だんだん機能が落ちていくことになります。物を動かす機能を大きく発揮させるために深い表現があるわけです。小は何のためにあるかと言えば、いろいろな可能性を人に見せることだと思うのです。機能ということもありますが、賞の目的というのは、制作者たちに新しい刺激を作り出して、お互いに高め合っていくことだと思います。そうすれば、広告の機能ももっと大きく動き始めるわけです。

広告の力を正当に評価したい

司会 お二人の話は、広告をビジネスと考えるか、もう少し上のところで捉えるかという論議です。ニューヨークのAME賞は膨大な資料を提出して審査するようですが、こういったものがあれば賞もいいということですか? 小田桐 本当に機能を果たしかどうかは、その国に行ってみなければわかりませんし、どの部分が動いたかはわかりにくいですね。でも、基準はアイデア、質の良さだけなのかという問題もあるわけです。やはり、広告の中の表現が持っている機能の可能性だと思いますね。

馬場 アサヒビールの広告は、数字的なデータなのかも知れないですが、起こると思っていなかったシェアが逆転した広告の力です。これは商品と流通のほかに広告の力があったからです。この広告の力を正当に評価したいわけです。プレイステーションについても、毎週あれだけの本数を投下して、あのレベルを維持している力はすごいと思うのです。
得意先の戦略もあるのでしょうが、相手のシェアをゼロにするわけですから、そのことと表現が一体化した至福のトライアングルなのです。
テレビは本当は価値がないものなのに、メディアが他にないから、そこに集約しています。
本当に我々はラジオとフィルムだけで機能しているのかと思うわけです。僕は、テレビCMは10年後になくなっているかも知れないと真剣に思っているのですが、そこにこだわっていいのでしょうか。メディア自身がもっともっと変化していくと思うのです。その中でCMのクオリティーにこだわっていたら、僕らクリエイターはそのうち古典芸能作家になってしまうとさえ思います。

小田桐 メディアをつまらなくしているのはCMだけではないけれど、CMも関係しているわけです。我々の仕事は大衆を捕まえる仕事だと思います。これからのメディアは、 シンパをどうやって拡大していかということと、その人をきっちりとそこに連れていくような、マス以外のメディアをどうやって使うかというメディアプランニングをすることが必要になってくると思います。その上で我々の技術があり、それによって広告の機能を大きく果たすことができると思います。

馬場 僕は今のままでいいと言っているわけではないし、広告をスケルトン的にしようと言っているわけではありません。

小田桐 少し乱暴ですが、僕は流通に問題があると思っています。広告の機能を結果的に狭くし、将来をも暗くし、メディアをもつまらなくしていると思っています。

馬場 僕もそれは同じ意見です。ただし、その変容してきた流通に合わせて広告も変容してきているわけで、それに対して機能は変えていかなければいけないのではないかということです。

小田桐 僕は流通の機能が、もう少し違った形に変っていくと思いますね。何度も言うようですが、僕たちの仕事は基本的にはもっとたくさんの人間に向かうべきです。そのために表現があり、広告が効く、効かないということがあるわけです。

広告は機能を持ったアート

司会 馬場さんからはCMの役割はビジネスであり、やがて滅んでいくメディアであるという辛い言葉が出てきましたが、小田桐さんはもっと栄えさせるためにも、多くの人を掴むための表現というものを大事にしようということを言われました。メディア進化論からいうと、やがて滅びていくのかも知れませんが、負の力というのは何かの表現や手立てによって止めることはできるのでしょうか。

馬場 刺激的な商品、21世紀型の商品が出てくることだと思います。広告は商品の新しい機能をきちんと伝えることが原点だと思っていますので、閉塞感があるのは新しい商品が出ていないからです。代理店は今、かなりそこに参入しているわけです。
流通が非常にタイトになり、商品も閉塞感がありますが、得意先は生き残るために画期的な商品を出してくると思うのです。そのときに広告表現は、それについていってプロデュースし、的確に情報として提供できればいいと思います。得意先についていくものだと思っていますから、変化はしても滅びるとは思っていません。
ただ、気になるのは我々クリエイターがそう思っていなくても、そこに表現の場とか、表現方法というところで機能しなくなってきたという厭世感です。クリエイティブの場だと思うと厭世感が出てきますが、ビジネスを楽しむ場だと思ったら、出てこないと思っているのです。

小田桐 僕は自己表現の場だとは最初から思っていません。そうは言っても、クリエイティブというのはどこか自己があるわけです。それは、馬場さんがかつて作ったものを見れば、馬場さんの顔がありありと浮かぶようなものばかりだったわけです。でも、それとビジネスが合致していたわけです。それは幸せな合致で、それが我々の仕事だったのです。
表現するということは、ある部分で自己実現です。その部分と機能があるわけです。
他のアートと違うのは機能を持ったアートだと思っています。ある部分の自己表現とお金があるから面白いわけです。やはり、お金だけではつまらないじゃないですか。その2つがあって、我々の仕事は面白いわけです。自分の表現で人を動かすところが面白いのであって、表現を省いたビジネスとは別だと思っています。

馬場 それはそうです。僕も広告表現はいい仕事だと言っています。自分たちのゼロの頭の中で考えたものが100になり、そのことで達成したものはすごくありましたからね。
そこは小田桐さんが言われることと一緒ですが、今はやりにくくなったことは事実で、閉塞はしています。

コンペティターは同じ業種とは限らない

司会 この閉塞感から抜け出す方法は何かないのでしょうか。

小田桐 僕はもう変わってきていると思っています。流通に対して自分たちが主導権を持たない限り、いつも流通の顔色を伺うような広告しかできません。それは、結果的に自分たちの商品の力を高めていく方向には向かわず、弱める方に向かって行っているのです。 それではもうダメだと、クライアントの側からそういった声が出てきて、商品そのものの力をつけるような広告にしようとしています。
グローバル・スタンダードは流行り言葉ですが、実際に我々は外資系の商品とすでに国内で戦っています。例えばナイキは我々が流通にとらわれていた広告の裏側をかき、ブランド広告を成功させるためのメディアをきちんと機能させました。そういう意味では、我々の目の前に競うべきものがたくさん出てきて、クライアントの意識も変わり始めました。
案外早く変わるのではないかと思っています。テレビのメディアそのものも、そのことで変わっていくと思っています。
ただ、今はものすごく技術が落ちています。ウチのプランナーの中には、アイデアが何かわからない人もいます。音楽とタレントを探してくることがアイデアだと思っていて、そこには表現なんかないのです。

馬場 閉塞感から抜け出すための方法論は2つぐらいありそうな気がするのです。ひとつは、流通をどう捉えるかなのですが、コンビニには人が集まっているわけですから、その中で広告がどう機能するかを考えることです。得意先は、コンペティターを同じ業界の人という発想から変えていかなければならないと思います。
ワンコインライフスタイルが出来上がったわけですから、その中でのコミュニケーションはちょっと変わってくるのではないかと思います。
例えば、肌水を買いにきた女の子が、おむすびを買って帰ることもあるのです。得意先は必ずコンペティターを同業種と見ていますけど、僕は生活者だと思っています。僕が言う流通は生活者なのです。残念ながら、今、コンビニ至上主義ですから、そこの商材をコマーシャルするときに、表現の方法は変わってくるだろうと思います。単に機能だけではないでしょう。おむすびと肌水がコンペティティブになっていることを、広告がどう解決していくかがひとつです。それは、まさにその人たちの生活を見ることだと思います。
もうひとつは、これだけCF中心になっていますが、街をメディアにしていくことがくるのではないかと思います。街が活性化してメディアになっていけば、東京は世界に対しての発信地になっていないと思うのです。電波を見ている限り、世界基準になりません。
街がびとつのメディアになっていったら、変われるのではないかと思います。他のメディアで唯一生き残れるのは、そこなのかなと思っています。同時にコンビニはメディアになり得ます。メーカーさんが一番大変だと思うのは、新商品を刺激的にやらないと、肌水を買いに行ったのに、何か他の刺激的なものに手を出すということがあるからです。

小田桐 お腹が空いていれば、肌水は後で買いに行けばよいと思うでしょうね。でも、我々の仕事は、どんなにお腹が空いていても、肌水に真っ直ぐ行くようにすることでしょう。

馬場 そういうふうに考えると作り方も変わってきそうな気がしますね。

もっと多様で大きな表現力を

司会 グローバル時代と言われていますが、CMの表現についてもワールドスタンダードが必要なのでしょうか。

小田桐 15秒というのは、心の刺激というより、言わば物理的な刺激に向いたスタイルだと思うのです。みんなが商品に向かっている時代はそれで機能したのですが、ブランドそのものに力をつけさせようとすれば、もう少し深く心を掴むところに向かうのだろうと思います。今までCMはテーマがなくてもできたわけですが、そうすると何を訴えるか、人間のどの部分を突くかが必要になってきます。人間なら誰もが持っている普遍的なところへいき、世界でも戦える方法ができてくると思います。

馬場 人に届くことが、広告が機能することのベースです。ところが今、世界中でユーモアだけが機能の届き方になっているような感じがします。昔はもっとエモーショナルとか家庭、愛がありましたが、それが今、広告の中で欠落しています。そういう意味では、15秒は届きにくいサイズだと思います。
僕は、日本のビジネスの中で本当にサクセスし、表現的にもすごくいいものが、カンヌで受賞できるのが理想だと思います。賞取りを意識するのは王道ではありません。僕らは根っこのところでやはり表現者です。単にビジネスだったら市役所にでも行っていたでしょう。やはり、この業界を盛り上げていかなければいけないと思っています。

小田桐 去年、当社の30歳以下の連中が10数人カンヌに行ったのですが、彼らが感じたことは、自分たちがどうも違う仕事の仕方をしていたのではないかということです。
アイデアで人を動かすことを全くと言ってよいほど念頭に置いていなかったのです。
人の気持ちの捕まえ方に我々の仕事の面白さがあるし、だからこそ機能を果たすわけです。
モノが動きにくくなればなるほど、広告のクリエイティブはもっと求められると思います。
人を動かすのは広告の力ですから、もっと多様で大きな表現力が求められると思います。

司会 ぜひ若い人たちを元気づけて、放送メディアの発展につなげていただきたいと思います。
  
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