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馬場マコト業界全発言

[JAAA REPORT]1999年1月号
日本のクリエィテブ界に打開策はあるか
6月のカンヌ、11月のACC賞授賞式が終わって今年の日本の広告界におけるクリエイティブ総括は一応終わった感がある。

昨年のカンヌが受賞ゼロ、最優秀賞が海外制作のナイキだったことで、日本のクリエイティブの危機感は一気に高まった。常に右肩上がりの経済だけしか体験したことのない我々クリエイターが、初めて体験する右肩下がりの経済の中でクリエィティブが経済に機能しないというあせりがその危機感を加速したかもしれない。もしかしたら日本のクリエィティブはこれで終わるかもしれない。そんな危機感が1998年という日本の広告界をなんとかしようという原動力になって、カンヌではJTのディライトが受賞し、ACC賞はKONISHIKIの圧倒的な怒涛のエンターティンメントが各賞を総なめした。

結果、昨年のあんなにやかましかった危機感が語られなくなったのはなぜだろう。カンヌで一本でも入賞することが日本におけるグローバルスタンダードなのだろうかとさえ疑ってしまう感がある。カンヌで受賞したJTのディライトという人々の共生をテーマにした企業広告は確かに映像的にすばらしいものがある。しかし企画以外はすべて海外スタッフで作られた作品であり、日本の広告が世界と互して闘った結果と思えないのは私だけなのだろうか。そしてKONISHIKI。あの怒涛の寄りに声が小さくなりそうなのだが、徳俵にかかとをつけながら、えーい思いっきり言っちゃうと、あれって数十年前に高見山でやったよね。新しい手法としては窮状を逆手にとって自虐的に開き直った湯川専務の変化球だけという中で、唯一の光明はカゴメ、永谷園にみられるようなシズルの本質に迫ろう、商品の力を語ろうという直球の表現が現われたことかもしれない。

そしてもうひとつの残念な特徴としてラジオCMのますますの衰退があげられる。賞取り用に意識して作られ、放送されたものと日常のラジオCMの間にあるクオリティーの乖離はますます目を覆うものがある。カンヌ受賞、KONISHIKIで今年の日本の広告界のクリエィティブはブレイクしたわけでなく、あいかわらず広告表現の閉塞感は続く。

さてこの状況をどうすればいいのかと思いながらACC賞の受賞パーティーに出て驚いた。広告会社、フィルムプロダクション出席者のほとんどがみんな顔見知り。というより二十五歳のころからずっと広告を一緒に作ってきた連中ばかりなのである。確かに月日がたってみんな各社の幹部になってパーティー会場に出席せざるをえない年齢になったのだろう。同時に一番の問題はそんな連中がみんな現役の制作者であること。

これでは若手が出てくるというのは大変だろうなとつくづく実感した。我々の頃はと言うと笑われるかも知れないが、五十歳近いクリエイティブ・ディレクターはいなかった。三十歳前でグループヘッドをみんなはっていた。当時、制作者三十五歳引退説というのがあって、あと五年たったらなにをすべきかと真剣に悩みながら仕事をしていたことを突然パーティー会場で思いだした。にもかかわらず、あれから二十年、なんのことはない、私を含めてみんなそのままグループヘッドのまま、引退もせずにバンを張っている。四十歳でもグループヘッドをはっていい人間がグループヘッドになれないのが現実である。これでは若手は育ってこない、新しい表現はなかなかでてこない。

同時にラジオメディアの衰退が若手の育成を阻害しているとつくづく思う。ラジオこそ我々若手クリエイターの修業の場だった。先輩のコピーライターにチェックを受けることなく、ナレーターとミキサーとたった3人で秒数が入る入らないといいながら、録音現場で原稿を書き直し続けることで企画の本質である言葉と時間という概念をスタジオで学んだ。ラジオ原稿を書き続ける中で「あいつおもしろい原稿書くじゃない、じゃ新しい仕事やらせてみるか」とそんなふうにして我々は先輩からコマーシャルの仕事を与えられたのだから。

閉塞感だけが漂う日本の広告クリエィティブ界に有効な打開策はふたつあると思う。ひとつは各広告会社のクリエイターの年齢制限をかつていわれた三十五歳にすること。そしてひとつはテレビでもラジオCMしか流せないことにすること。 まあ、このぐらい極端なことをしないと新しい広告表現と生きのいい若手はでてこないのかもしれない。では言いだしっぺの私からまずは引退を。
  
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