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馬場マコト業界全発言

[読売新聞ADレポート]1999年4月号
経済の一員としての表現者
広告をつくる環境が大きく変わりはじめている。流通が大きな力を持ちはじめる一方、不況の中で広告主からは「売れる広告」が強く求められている。こうした現状に、広告クリエーターたちはどうこたえようとしているのか。売るための広告とマインドシェアを高める広告とは違う、そして売るための広告の一部は「人を動かす報道」へと変わってきていると語る東急エージェンシーの馬場マコト氏に、広告制作現場の現状と課題を聞いた。

外資系企業の参入や広告会社の再編と広告業界は大きく変わろうとしています。しかし、クリエーティブだけはビジネスと直結しないコップの中の議論をしているように見えるのですが。

「制作者だけがコップの中」というのは、そうだと僕も思っています。プロフェッショナルの意識はあるけれども、コップの中で「クオリティー」とか「広告のグローバルスタンダード」とか言って、その意識がマーケティングとも社会ともリンクしていない。そんな彼らを"古典芸能作家"と僕は呼んでいるんですけど、そういう時代は恐らく15年前にもう終ってしまったと思っています。営業やマーケティングも、「制作とういうのは結局、わけ分かんないから」とあきらめている。長い間、広告クリエーターは表現至上主義でやってきましたが、やはりそれを一回忘れないと、2000年以降はやっていけないだろうと思っています。広告をつくる環境が大きく変わってきた根本には流通の台頭があります。コンビニエンスストアは全国で4万店に近づこうとしています。セブン・イレブンだけで七千七百店以上、ローソンも七千店を超えています。
例えば、毎年二月に飲料の新商品はほとんど出るわけですが、メーカーは、こういう商品をつくりたいとコンビニエンスストアのバイヤーのところに持っていって、そこで「面白いね」と言われない限り、商品開発ができないというところまで来ているといいます。以前、我々がある飲料メーカーに「そのネーミングもパッケージもまずいので、こういうふうに変えませんか?」と提案したことがありましたが、「社長の決裁を取っているから変えられない」ということで通らなかったことがありました。でも、今は、コンビニエンスストアのバイヤーが「それでは人々はつかめない」と言うと、ネーミングもパッケージも変わってしまう。もうそういう時代なんですね。ある意味では、メーカーの社長よりもコンビニエンスストアのバイヤーの方が強い時代になってきたということです。
また、コンビニエンスストアのようなところでは、棚落ちという問題があります。"週販"と言って、一週間に平均店舗で一定の本数以上売れないと棚落ちする。限られた面積に商品を置くとなると、売れる商品が中心になる。新商品でも売れないとなると、一か月以内に棚落ちになります。棚からなくなると、その商品のコマーシャルは完成していてもオンエアされない。僕もそういう目に遭いました。春編と夏編をつくっていたのですが、棚落ちして夏編はオンエア中止です。
だから、「流通が強くなり過ぎたから、いい広告ができなくなった」という人たちがたくさんいるんですね。僕が「古典芸能作家」と言うのはそういう人たちです。モノを売る場が強過ぎるとか弱過ぎるといった話にはまったく意味はありません。厳しい流通の現場で人がその商品を手にするための有効なコミュニケーションは何かを考えなければ、変化した市場に対する広告表現は提示していけません。

一昨年のカンヌの広告祭で日本が一作も賞を取れなかったことで、クリエーターの間でも議論があったそうですが……。

広告は当然、モノが売れたことが評価の大きな基準であるべきなのに、クリエーターの世界ではモノが売れなくても広告が評価されるという変なところがあります。カンヌは確かに話題にもなり、クリエーターの間でも議論がありましたが、「別にカンヌで賞を取る必要ない。我々のマーケットである日本でちゃんと棚落ちしない、商品に対してサポートできる広告表現になっていればいい」というのが僕の考えです。
一昨年からの議論は、広告表現とは何だということが非常に未整理のまま語られていたと思います。モノを売るための広告と「ここに私は居続けてますよ」というブランドを維持するための広告は違うはずなのに、一緒のところで論じられているのが問題だと思うのです。 例えば、商品情報は十分知りつくされたレンズ付きフィルムは別に商品力を語る必要はなくて、ただ「ここに居続けていますよ」という"マインドシェア"が大切です。それを買う時に、何となく○○フィルムが好きだからということであれば、そこに面白い広告が成立する。そのブランドを持続させるための広告と、流通のようにその場その場で売り切っていく広告というのはマーケットが違うはずなんですね。

広告にパワーがなくなった、広告が効かなくなったと言われていますが、その原因は?

確かに、日本の広告は世界から取り残されると、多くのクリエーターは言っています。僕は、取り残されるとは思わないんですね。今は経済的ダメージを受けていますが、これまで世界で二番目に大きい市場をつくってきた。広告もその一翼をになってきたわけです。クリエーターにビジネスとしての広告を成功させるという自負がなくて、広告表現が陳腐になったとか、力がなくなったことだけを言っている。
それで、カンヌで賞が取れないという話になるわけです。我々は経済の一員としての表現者でないといけないのに、映像だけの話に終始してしまっています。 カンヌの広告はあくまでも映像論なんですね。マーケティング論ではありません。カンヌで入賞するのに大事なのは言語がなくても分かるという意味でのユーモアです。おそらく映画でもそうですが、「ユーモア」「家族」「暴力」「セックス」という四つのワードが世界の共通言語だし、そこでの映像は言葉とは関係なしに成立します。
それに対して、広告はその国の人々にモノを売るための心理学です。カンヌは、そのことがユーモアという共通言語だけで評価される。そこで評価されなかったら日本の広告は遅れている、世界から取り残されるというのはおかしな話で、経済の変化とともに広告表現は変わって当たり前だし、そのことを認識しないで論評されていることが多いんじゃないかと思います。

経済の変化にあわせて広告表現は変わるということですが、そういう視点から見て、最近の広告はどう変わってきているのでしょうか?

流通が新しい価値観を持つことで、今までの広告表現とは違う局面がさまざまに誕生しています。新聞では通販が大きな広告紙面を占め、その比率を高めている。従来は新聞折り込みをメーンにしていたところが、店舗数拡大、通販システムの充実で新聞本紙を使って大々的なコミュニケーションを展開しています。メディアの使い方が流通の変化とともに変容してきている。それに従って広告表現も変容しないといけないわけです。
新聞広告の変容はテレビにもおよんでいます。いわゆる電子チラシ化ですね。従来のテレビは商品広告がメーンだった。それが流通広告が参入し、価格訴求や品ぞろえ広告が増えるにつれ、おのずと広告表現は変容せざるを得ない状況になってきたと思うのです。
アメリカなどで行われていた価格訴求、比較広告がようやく日本でも主流になってきたわけです。今、この表現のあり方と、従来の商品品質訴求広告のあり方がごっちゃに、同次元で語られている。で、これでは日本の広告は取り残されるとか、広告クオリティーの追求をもっとすべきだという掛け声が一斉に上がっているわけです。彼らはテレビメディアにおける広告の変容を区別しないで言っていると思います。
僕は今後、テレビメディアにおける広告の「報道」化が加速するだろうと見ています。どういうことかというと、昨年の暮れに話題になったイトーヨーカ堂の還元キャンペーンに代表されるものですね。これは結局、「還元」というキーワードだけで消費者が動いたわけです。モノが売れないとみんなが嘆いている年末に、人々がイトーヨーカ堂にワーッと動いた。考えれば10%、20%割引をしても売れない時代に、五%で人々を動かしてしまった。同業他社も、マスメディアも最初はあそこまで動くと思っていなかった。今までのクリエーターだったら、「なんだディスカウント広告か、もっと表現や企画で勝負できる仕事がしたいな」と思っていたはずです。それが「割引」を「還元」にしたところにクリエーティブがあったわけです。
コジマがそう、ヨドバシカメラがそうでしょう。メディアと広告の変容で広告は変わってくる。変わってきて当たり前なのです。広告には人を動かすかめの報道と、人のマインドに入り込むための広告と二つあると考えないと、こうした動きは見えてこないと思うのです。ところがどうも大半のクリエーターは、まだ人々のマインドに入ることにしか目が行っていなくて、グローバルスタンダードとかクオリティーとか言っている。報道広告には広告表現の新しい基準が導入され始めているわけです。従来のクオリティーは価値になっていかない。人々を集められたか、人々は動いたのか。そして人の気持ちを突き動かすイベント化と変化に日々対応できるのかということが、新しい広告表現の価値になってくるわけです。報道広告を従来の広告価値で判断しようとするから、面白い、面白くないということになってしまう。
商品がどれだけ動くか、動かすための戦略は何かという組み立てで悩んでいるのはマーケターで、もっと言えば、これだけモノが動かない時代、今一番悩んでいるのが広告主のトップです。むしろ、広告主のトップが広告手法を全部変えようとしているのに、広告会社のマーケターがそれについて行けないんです。僕らは、もっともっと広告主のトップの皮膚感覚に敏感に感応していかなければならない。

広告主のトップが広告を変えようとしているとうのは、売れる広告をという単純な話ではなく、新しい広告ジャンルをつくるということですか?

そうです。その代表例として、昨年話題になった永谷園のお茶漬けのコマーシャルがあります。あそこでお茶漬けを食べる青年は、ウチの制作局の入社三年目の社員なんです。彼を使ってプレゼンテーション用のフィルムをつくり、永谷園に対して、某タレントにこういう食べ方をさせましょうと提案したんです。ところが永谷園の社長からの返事は「プレゼンフィルムの男で動くと思うから、どうしても彼を起用したい。三年間の契約をしたい」という話。驚いたのはわれわれで、「いやこんな食べ方を某タレントで」。それに対して、社長の答えは「彼でなければ駄目なんだ。彼だから動くんだ」。
オンエアするといっぺんにモノが動きました。お茶漬け市場というのは昨年で約二百億円ですが、この伸びは前年比1.4倍です。永谷園の株価も押し上げました。
食べることの本質、本能に迫ろうという企画でしたから、確かに社長の直感は正しかった。コマーシャルの撮影では、彼がウチの社員だったから「さあ、食え」と遠慮なく言えた。チャーハンの広告では立て続けに八杯ぐらい食べさせているんですよ。タレントだったら絶対にそんなふうに言えない。食べる本能に迫れなかったでしょう。
あのコマーシャルはスーパーシズルというジャンルを確かにつくったし、われわれもそのお手伝いをしたんですが、やはり最終的には、素人の彼を起用した社長の皮膚感覚です。それに比べて、われわれは、モノを動かすためにはどういう生理で人々が感応するかという点で甘かったですね。広告主が考えているほどには、われわれ自身に執着心がなかった。
これだけモノが動かない経済の中で広告主は生き残りをかけているわけですが、われわれクリエーターは、作家論や映像論、表現の話だけで、マーケティング論や経済の話ができていない。そこが日本のクリエーターの一番駄目なところです。流通の広告を報道のテクニックあるいは報道クリエーティブと考えれば、瞬発力だけの勝負になるんです。同時に、必ずクリエーターとしての基礎体力をつくります。しかも、表現至上主義にならないので、モノを売るというのがどういうことかも分かります。

売るための広告、販促効果の高い広告とクリエーティブは、なかなか結びつけにくいと思うのですが。

去年から注目しているのは、マツモトキヨシの広告です。あれは僕の言う報道の売りと広告表現とが限りなくリンクした一番のサクセス・ストーリーだと思います。
マツモトキヨシのコマーシャルはここ二年くらいの間、店舗拡大戦略と同時、つまりどこかに店舗がオープンするとオンエアが多くなっています。また、買い物するシーンで手にするのは必ずトップ商品です。例えばダイエット剤ですが、その商品自体の広告は ほとんどしていないのに大ヒットしています。また、店舗を店舗として見せるのではなく、店名を利用して、マツモトキヨシという架空の恋人がいるというストーリーにした点で、売りと広告表現とがリンクしています。
同じ観点では、ソニーのプレイステーションもすごい。ゲームソフトであれだけ後発だったところが、世界中で大きなシェアを取るようになったのですから、確かにマシンが良かったのだろうけれども、年間三十本以上つくられる広告そのものが情報になっているんです。子供たちはそれで買いにいくという、走りの構造になっています。
今年の「クリエーター・オブ・ザ・イヤー」にも、こうした傾向は現われています。これは広告会社のクリエーティブ・ディレクターを対象にグランプリ一人と特別賞を三人まで出す賞なんですが、98年度のグランプリは電通の佐々木宏さんの「KONISHIKI」でした。エントリーした三十人の中で審査員のダントツの支持でした。彼は、モノを売るという報道性と広告表現の複合がうまい。クリエーターの仕事の一つに仕掛けがあります。KONISHIKIは相撲協会という枠組みを外れて生きようとしている旬の人。
酒税法も一つの枠組みで、ともに枠の解体を象徴している。仕掛けの中でそういう両者の気分がうまく合ったんだと思いますね。
特別賞には、「永谷園」の仕掛けをしたウチの朝生謙二も入っています。僕も審査員の一人なんですが、最近の広告の中には追い込まれて表現が変化してきているものが出てきているという感じがしています。つまり、表現オリエンテッドよりも、仕掛けとか物を売るための工夫がないと生き残れないところに来ているわけです。
デザイナーやカメラマンは職人だから表現のことを言ってもいいが、広告会社のクリエーティブの人間は、時代に対してどんな商品をプロデュースしていくのか、そのためにはどう仕掛けるのかという仕掛け屋でないといけない。今までの広告制作は、「何か面白いことない」みたいな話ばかりなんですね。クリエーター・オブ・ザ・イヤーの受賞者を見ると、そこのところは大分変わってきているのではないかと思います。
ただし、広告はモノを売るというのが基準なのに、そうではなくて、モノが売れなくても評価されるという風潮はまだ根強く残っています。
アサヒビールはスーパードライを売って経済を変えたのですが、スーパードライの広告はあまり評価されていない。おかしいと思いますね。なぜなら、アサヒビールがトップシェアになったことに対して、広告表現は何のケアもしなかったということになるわけですから。あれはまさにマーケティング上のサクセスだと思います。ビールの鮮度というものを報道したんです。ビールが工場から出て何日で店頭に並ぶということをドキュメント的に出しました。最初、「八日でお届けします」と約束したことを守るというマーケティングをやった。それが「六日になりました」「五日になりました」と報道する。
やはりそこのところにはクリエーターがきちんと寄与していたということを示すべきです。モノを売ったということの評価の尺度をもっと持つべきだと思いますね。

一方のマインドシェアを高める広告についてですが、ブランド広告と同じと理解してよいのでしょうか?

僕は、そう思っています。例えば、それこそブランド物のハンカチを渋谷のお店で買うとする。渋谷にある大型店の各店舗にそれが置いてあるとして、17歳の女の子が彼の誕生日にそのハンカチを買おうと渋谷に来たら、どこに行くか。それがマインドシェアだと思うのです。そういうマインドシェアを高める広告というのは、漢方薬的に持続すべき広告です。
今、広告制作のトップを走っているのがこれまで言ってきた「報道」です。情報として「還元します」と言えば、人は動く。でも、この効果が落ちてきたら多分、今度はマインドシェアという問題が加味されてくるはずです。
同時に、今度はこのマインドと言うか、ブランディングというところでは、今までのクリエーティブがやろうとしていたものがまだあることは事実です。この二つを、今後は別々の専門家に分けるべきだと思っています。
僕自身は、実はブランド広告をずっとやってきたんですが、ブランディングというのは時代にあまり影響されないものだと思っています。「やさしい」、「豊か」、「たおやか」という三ワードだけで、僕はブランディングをやってきたつもりです。時代にこびないで、やさしいとか豊かと言うのはある種気恥ずかしい。でも、そのことを正面切って否定できる人間はいません。そういう絶対揺るがないものでブランドをつくっていくやり方と、多くのクリエーターがやっているブランディングを時代とリンクさせる方法の二つが今あるような気がします。
「ウチの会社の商品テーマはやさしさです」とか「技術はあなたのために開発している」、「一つひとつがあなたの生活を豊かにする」という直球が、僕は本当のブランディングではないかと思っています。ベネトンのように切り捨てていくブランディングがあることももちろんわかっているけれども、「あなたは来なくていい」と言われているみたいで嫌なんですね。10%の人の気持ちはつかめるけれど、90%は捨てるわけです。90%の人の気持ちをつかむには、逆にとんがってはいけない。それには、豊かとか、やさしいとか、たおやかとか、皆が恥ずかしいと思っていることをきちんと確立することだと思うんですね。少なくとも僕はそういう気持ちでやってきたつもりです。
  
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