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小説

小説現代 1992年6月号掲載
サマータイムの終わり

成田空港の階段を下りると、響子は出国審査の列の後ろについた。

出発便が重なる時刻なのだろう。列は少し続いていた。

使い古してボロボロになったパスポートとJAL006便ニューヨーク行き塔乗券を出す。

審査官はパスポートの写真と響子を事務的に確かめる。

入国カードをステプラーで止め、出国スタンプをポンと無表情で押すと、パスポートを返してくれた。

「ありがとう」といいながら、響子はなんだかほっとした。

日本にいる間は、いくつかの得意先とまったく性質の異なるビジネスがいつも交錯している。

金属材料の特許申請と、遠赤外線の電磁気の権利移転事件では、対処の方法論があまりにも違っていた。

あわただしい日常の中で、数多くの事件に対して次々にどう発想を切り替えていくかが、

響子たち弁理士のビジネスのポイントなのかもしれない。

それに比べ海外の仕事は、ひとつのことに集中さえしていればいいという一点で気安かった。

初めての得意先。異国の弁理士。その国独自の法律と習慣。

そして響子の得意先の利害と合い入れない要素がいつもつきまとっていたが、気安さはなにものにも替え難たかった。

だから、パスポートに出国スタンプをポンと押されると、

国家から「今日からはひとつのことだけを考えていればオーケー」とオーソライズされたようで、響子はいつもほっとする。わずか二週間のニューヨーク出張。なのに出発前に処理しておかなければならない案件が多すぎた。

十六番出発ゲートに入った。たくさんの人が待っていて、少したじろいだ。

搭乗まであと十五分ほど待ってほしいというアナウンスがあった。

シートに早く座り落ち着きたいのに、なんだかがっかりする。いっきに連日の疲れが襲ってきた。

大きな荷物を跨ぐと、響子は硬い椅子に腰から座りこんだ。

背中を叩かれた。触れるでもなく、柔らかく。

この叩きかたには遠い昔に記憶がある。口と顎に蓄えた髭が半分以上真っ白な男が立っていた。

「澁澤さん、ですよね」と確認するようにいった。そういいながら、響子は少し動揺していた。

用事がある時名前を呼ばず、きまって肩を優しく叩いた、澁澤のあの叩きかたをまだわたしは覚えていた。

「覚えてもらっていて光栄です。僕なんかとっくに忘れられたと思ってたから」といって澁澤特許事務所の所長、澁澤裕一は気まずそうに笑った。

「忘れるわけがないわ。でも何年ぶりかしら。澁澤さんの事務所が溜池で、わたしのところが西新橋でしょ。

街で会ってもいいはずなのに、こんな空港でばったり会うなんてなんだか不思議ですね」

といいながら、響子はさっきの疲れた座りかたを見られなかったか心配した。

「僕のところを出てから六年。最後に会ってから三年です」

澁澤は気まじめな顔でいった。

響子は話題を替えるようにいう。

「それよりお元気そうでなによりです。相変わらずお忙しそう」

そういいながら二人の間に流れた時間を推し量った。

「忙しいのは君のほうだ。活躍は聞いてる。大評判だ。もう僕の手強いライバルだ。

仲間うちで君の話題が出ると、師匠は僕だといって、いつも自慢するんだ」

そういいながら、澁澤は昔からの癖の髭を撫でている。

「ほんとにお師匠さんにはいろいろ教わりました」

なんだか気まずくて、響子はふざけてぴょこんと頭を下げた。

「にしては、きみは師匠を無いがしろにしすぎるよ。あれ以来、盆、暮れの挨拶もない」

茶化した物言いをしながら、澁澤は響子をじっと見つめた。

その視線がつらくて、響子は目を彼の白くなった顎から下におろした。

柔らかそうな黒い皮のジャンパー。十月のなかばにしては、東京では少し早いのかもしれない。

きっと澁澤は、ニューヨークの気候にあわせたのだろう。下には黒のラルフローレンのポロシャツ。

ボタンをふたつ外して、襟を何気なくたてている。その襟元に空港の大きなガラス窓から秋の午後の光が差し込んでいた。

胸元から胸毛がのぞいていた。

事務所ではいつも、彼は生まじめなほどビジネススーツに身を包んでいた。

スーツはきまってブルックス・ブラザーズだった。

響子が勤めていた五年間、事務所以外で二人が会うことは一度もなかった。私服姿の澁澤を見たことはなかった。

だから彼がこんな胸毛の持ち主だと初めて知った。

ポロシャツの胸もとに白い糸がついていた。

あらこんなところに糸が、なにげなく響子はその糸をとろうとした。澁澤の先ほどまで笑っていた笑顔が消えた。

手を伸ばして糸に触れた瞬間すべてを理解した。

それは胸毛の白髪だった。

触れられないようにと、澁澤が身をひいた。無数の胸毛の白髪が午後の逆光の中で煌いた。

「ごめんなさい」響子のその言葉は空港のざわめきの中にいつまでも浮いていた。

「女性はいい。年を重ねるたびに、艶やかになっていく。君がいい例だ。こっちはその間にボロボロだ」

一瞬硬い表情になった澁澤は、おどけていった。

「いやだわ。確か今年の七月十九日でで四五歳になったばかりじゃないですか」

「誕生日まで詳しく覚えてもらっててありがとう。君は僕の歳さえ関心がないと思っていたのに」

この人はわたしを誤解している。

「あの時は」といいかけて、響子は澁澤を見上げた。

その時、搭乗開始のアナウンスがあった。ゲートが開かれ、人々が動きだした。響子も立ち上がった。

アナウンスがなかったら、この後をどう続けていたのだろうか。人の動きに合わせて、澁澤も動きだした。

「座席は何番?これで座席まで隣あわせだったら奇跡だ。煙草、吸ったよね。その可能性は十分にあるわけだ。

僕は五九のCのスモーキングシート。最悪だ。エコノミーの少し前。

スモーカーはなにかにつけて虐待されるひどい時代だよ」

澁澤は塔乗券をひらひらさせながらそういった。

「わたしは流行に乗りやすいの。三年前から、禁煙よ。お陰で席も二階席」

あの時から禁煙したのだと苦い思いをしながらいった。

「そうか、こんなことがあるんなら煙草止めるんだったな」

そういって、澁澤は塔乗券をカウンターのチェックマシンに入れ、それは勢いよく吸い込まれた。

向こう側から飛びだしてくる塔乗券を、グランドコンパニオンが素早くピックアップする。

「後方、右の扉からどうぞ。いってらっしゃいませ」

澁澤に続いて響子も塔乗券を入れた。

「右側、前方の扉からどうぞ、お気をつけてどうぞ」と素敵な笑顔でいった。

澁澤は塔乗券を手にして、しばらくそこに立っていた。

「じゃ、気をつけて」といいながら、わたしはどうしてこうなのだろうと響子は思った。

聞きたいことがいっぱいあるのに。

どこにお泊り?

あちらにはどれぐらい?

お休みの日に一度お会いできるかしら?

聞けばそれ以上に踏み込めるのに。いつもそこで躊躇してしまう。

六年前もそうだった。

そして三年前も。

響子もゲートの入り口に立ち止まってしまった。

後ろの客が大きな手荷物をぶつけながら、響子の側をすりぬけていく。

澁澤の横を通りすぎる客が、こんなところに立ち止まってまったくという顔をしている。澁澤がじっと響子を見ていた。

「お客様、どうぞ前へお進みください」とグランドコンパニオンがいっていた。

「じゃ」と響子は再び小さな声でいった。その時、澁澤の白い髭が動いた。

「ホテルはどこ?」

響子はいいよどんだ。答えるべきか、このまま立ち去るべきか迷った。

チャイニーズの三人連れが大きな荷物を持って入ってきた。

「こんなところに立っていては入れない。早く前へ進んでくれ」とでもいっているのだろう、

早口の中国語で大声でまくしたてた。シャープのビデオデッキとタイガーの炊飯器が響子に迫ってきた。

押されるように、前へ進んだ。響子は振り返った。澁澤が呆然とそこに立ちつくしていた。

澁澤がなにかいった。

でもその声はチャイニーズの大声に消されて、響子には聞こえなかった。

いつもあそこで止まってしまう自分がなんだかとても腹だたしかった。

シートに座っても落ち着かなかった。

機内に入ると最初に出てくる、オレンジジュースかシャンパンのサービス。

いつもなら、ジュースをもらうのに、シャンパンをもらった。

前夜までの睡眠不足のせいだろうか、わずかなアルコールで顔が赤くなった。

「ホテルはどこ?」このなんでもない言葉が澁澤にとって、どんなに大変だったか、響子はわかるような気がした。

そしてわたしはあんなに待っていたのに、どうしていいよどんでしまったのだろう。

響子はもう一杯シャンパンをもらった。

一階の後ろの座席で今ごろどんなに苦々しい思いで澁澤はこのシャンパンを飲んでいることだろう。

澁澤の気持ちを十分知っているのに。この十年以上、ひたすらに澁澤の誘いを待っていたのに。

いつも目の前にそれが来ると、そこから逃げ出している。

どうして澁澤のもとに飛び込めないのだろうと思った時、急激に酔いが回ってきた。

出発前のハードワークがいけなかったのだろうか。このまま眠りに落ちてしまえばいい。

澁澤のことも、日本に残してきた仕事のことも、ニューヨークで待っている複雑な交渉のこともみんな忘れて、

今はひたすら寝ることだと自分にいい聞かせた。

「もう一度安全ベルトをお確かめください。

間もなくこの飛行機はニューヨーク国際空港、ジョン・F・ケネデイー空港へ向かって離陸します」

というアナウンスがどこか遠くでなっている。

ジェットエンジンの回転の振動が緩やかに伝わってきて響子はそのまま眠りに落ちた。

夢を見ていたのだろうか。コルトレーンのバラード。

新橋のレンガ通りを入ったすぐのところにある小さなジャズハウス。

六年前も澁澤はブルックス・ブラザーズの紺のツイードのスーツだった。二人はカウンターに座っていた。

ライブ用のピアノやドラムスが目の前に置かれ、その奥に店の壁いっぱいに大きな鏡がかかっていた。

二人は鏡の中の相手を見ながら話していた。

曲が「セイ・イット」から「ユー・ドントノー・ホワット・ラブ・イズ」にかわる。

今では贅沢になってしまった、二階席のない吹き抜けの高い天井から、コルトレーンのサックスが柔らかく落ちてきた。

澁澤が響子のグラスにジャック・ダニエルを注ぎながらなにかいった。よく聞きとれなかった。

「え、なんて」と響子は鏡に写る澁澤に聞き返した。

「だから、君はよくわかっていないといったのさ」

澁澤は煙草に煙る暗い鏡の中の響子をじっと見ながらいった。

「そう、なにが」

二人の間の小さなローソクの灯が鏡の中で揺らめいた。

「なにがってホワット・ラブ・イズさ。もう一度だけいうよ。今夜はずっと君と一緒にいたい」

そういうと澁澤はグラスの大きな氷をゆっくりと指でかきまざした。

その指で、わたしの口の中をゆっくりとかきまぜて欲しい。唾液に濡れたその指で、柔らかく触れて欲しい。

鏡の中の澁澤は手が届かないほど遠い存在のようで、喉がなりそうだった。急いでジャック・ダニエルを飲んだ。

酔いが急に回るのがわかる。「出ましょうか」と響子はいおうとした。

そして、響子は急速に醒めていった。さきほどまでの欲望は、またたくまに消え去っていた。

グラスを置くと、膝がしらを強くあわせた。

「今度会った時にその言葉をもう一度いっていただけないかしら」

響子は小さな声でいった。

今度という時が二度とこないだろうと思っていた。

澁澤の性格は学生時代を入れると、五年間に渡るアシスタント生活で十分学んでいたはずだ。

澁澤のオフィスで学んだことは確かにたくさんあった。

大学四年の時に、ゼミナールの教授のところに、弁理士のアシスタントのアルバイト募集がきた。

条件は女性に限るということだった。電磁気学のゼミナールには響子しか女性はいなかった。

父親が死んですぐの響子は遺産はあったけれど、働かなくては不安だった。

弁理士がどんな仕事なのかも知らず、響子は澁澤の事務所を尋ねた。

澁澤も最初は響子に特許庁へ提出する図面の清書ぐらいしか期待していなかった。

こんなところにも電磁気を用いるのかと感心するくらい、さまざまな分野で新しい技術、

意匠が開発され申請を必要としていた。

未知の世界に響子はすぐに夢中になった。

そこにはゼミナールでは決して学べない新しい技術情報と、

それをビジネスにしようという人間の生々しい欲望が蠢いていた。

人々の欲望を法律という醒めた文書に置き換えていく作業は、響子の性にあっていたのかもしれない。

澁澤はそんな響子に興味をもって、さまざまなことを教えてくれた。

大学を卒業すると、響子はそのまま澁澤の事務所に就職した。

響子は澁澤のアシスタントを勤めながら、弁理士試験をうけた。卒業して三年目に試験に受った。

一年に三千人近くが受験して、合格者は毎年八十人ぐらいしか出ないのだから、響子はついていたといえるかもしれない。

いつか、響子は澁澤の肩代わりを十分にこなしていた。

毎日の仕事は充実していた。専門の電磁気以外の未知の分野を実践で体験できることはたまらない楽しみだった。

通信。電子回路。半導体工学。

新しい分野に響子はくらいついていった。それらの分野には日本だけでなく、海外との交渉があった。

語学が小さい頃から好きだった響子には、海外は新しい可能性だった。

それに比べ私生活は不安定だった。学生時代から続いている一人の男。

ただ中途半端に遊んでいたいために大学院にいった男。その男は響子の父が残した遺産を少しずつ遊興費にかえていた。

でも響子はそれが嫌いではなかった。生きるとか、真剣という言葉にまったく興味のない男だった。

お金がなくなると犬のように響子のところに戻ってくる。そして三日もするといなくなる。

濃密さのいっさいない男の感性が響子には合っていた。野良犬の男に響子はなにも求めなかった。

相手も響子に求めなかった。ただ一日抱き合い、後は響子は自分の時間の中に閉じこもった。

しかし、埋まらない日があった。そんな日は響子は澁澤を想った。

三五歳をすぎた澁澤が独身ということはなかったと思う。

響子は人のプライベートなことに立ち入る性格でなかったし、澁澤に結婚をしているのかどうか聞いたこともなかった。

ただ不思議に澁澤には家庭の匂いがなかった。さまざまな女から事務所に電話はあった。

だけど、澁澤から女に電話をするのを響子は見たことがなかった。

響子は澁澤にかかってくる電話を狭いオフィスで身を硬くして聞いていた。

そんな響子を澁澤がいつもじっと見つめていたのを響子はよく知っていた。

でも、決して澁澤は響子を一度も誘うこともなかった。ただ優しく触れるように肩を叩き、用事を頼むだけだった。

響子があんなに澁澤のことを気にしているのがわかっているのに、澁澤は響子をなぜ無視したのだろう。

「君がもっとこの仕事をやっていくには、僕の事務所のような小さなところではなく、大きな組織でこの仕事のシステムを十分に学んだ方がいい。友達の弁理士にも、そこのところは十分頼んであるから。

将来、日本の特許事務の世界を変える女性だといってある」といって、澁澤は響子が新しいオフィスに変わることを勧めた。澁澤のところにきて、大学時代を入れると五年の月日がたっていた。確かに響子にとっては澁澤のところにいるよりも、将来の独立ということを考えると、大きな組織がよかったのだろう。が、それ以上に、二人が狭いオフィスで二人の存在を意識し仕事をすすめていくには、限界がきていた。

 

響子がオフィスを去るその夜、初めて澁澤は響子を誘った。

何軒目かのジャズハウスで暗い鏡の奥の響子を見つめながら、澁澤は「今夜は君とずっと一緒にいたい」といったのだ。

そして響子はあんなに待っていた言葉を聞きながら

、膝がしらを強く合わせて再び「今度会った時にもう一度いっていただけないかしら」といっていた。

グラスをゆっくりまわしていた澁澤の手が止まり

「出ようか。新しい職場でもがんばってくれたまえ。また連絡するよ」というと、澁澤は自分からスツールを下りた。

それから澁澤が響子に連絡してくることは二度となかった。あんなに待ち続けていたのに。

しかし、響子も自分から連絡をすることはけっしてなかった。

澁澤の紹介で移った次の職場は、確かに響子にとって新しい驚きだった。

澁澤の事務所のように、個人のキャパシティで処理できる量と規模をはるかに超える仕事が待っていた。

システムで動くスケールの大きさに溺れた。溺れる過程で、響子は実力をつけていった。

犬のような男はいつか見合いをしていなくなった。響子は安心して、自分の殻に閉じこもった。

そして澁澤からの電話が鳴るのを待った。ひたすら待った。けれど電話は鳴らなかった。

自分からダイアルを回そうとはけっしてしなかった。それができたらどんなにいいだろうと思いながらも。

澁澤の事務所を出て三年目、西新橋に木下響子特許事務所を開いた。

三十歳になるぎりぎりで、響子は自分が自由になる場を確保した。確かにそれは同年齢の男たちより早かった。

そして彼らの努力よりはるかに楽だった。マスコミで名の知れた老弁護士が響子のことをなぜか気にいってくれ、

孫のようにかわいがってくれた。響子が男だったらけっしてこうはいかなかっただろう。響子は老人に甘えることにした。

東京という大都会で三十歳にもならない小娘が一人でやっていくには、そんな方法と自分の勉強しかなかった。

響子の事務所が軌道にのって、五ケ月ほどした年も押し迫った頃に、その老人の古希の祝いがあった。

帝国ホテルの大きな広間に、新聞やテレビでしか見たことのない人々が大勢押しかけた。

老人は響子にさまざまな人々を紹介しながら、

「これが私があんたにしてあげられる最後のことだ」と広間の騒音の中で囁いた。

大勢の来客者の中から澁澤を見つけると、わざわざ老人は響子のところまでひっぱってきた。

「この男には私も手酷くやられた。でも悪い奴ではない。同じ特許事務をやるものとして、

これからはこの男に相談するといい」といって紹介した。

三年ぶりに会う澁澤はとても落ち着いて見えた。澁澤の幅広い活躍は業界で知れ渡っていた。

四十歳をすぎて仕事に脂が乗りきっていた。その自信が澁澤を大きく、穏やかに見せていた。

その日もブルックス・ブラザーズのグレーのスーツだった。

響子が初めて会った時から、体形もまったく変わっていない。

中年太りの時期なのにお腹も出ていないし、顎の線はいつまでたっても鋭く尖がっている。

人の見ていないところで、自分の肉体を十分にいじめているのだろう。そして、そのことをけっして口外しない男。

この人はもう何十年もファッションと同じように、不器用なくらい自分の生きかたをかたくなに守り続けてきた。

わたしとどちらが不器用なのだろうと響子は思った。

「あれ以来、喪に服していました」と澁澤が突然、ぼそりといった。

も、というのがなんの意味なのかよくわからず、「えっ」と響子は聞き返した。

「あなたにふられて、ちょうど三周忌になる。そろそろ、喪も明けていい時期だと思っていました」

響子の都合で突然宙に浮いてしまった誘いの言葉。

自分の空洞が埋まらない日、あんなに会いたいと思ったのに。

不器用なのだ。自分からことを起こしにいっても、そのことにいつか飽きてしまう自分に響子はいつも脅えていた。

人と人の複雑に入り組んだ感情の糸をときほぐしたり結んだりするのが苦手だった。

それなら自分の殻にじっと閉じこもっていたほうがどんなに気楽でいいだろう。

結局この三年電話を響子からすることはなかった。

「嫌だわ。ふられたなんて聞こえが悪い。それになにも喪に服さなくても、

わたしは澁澤さんの電話をずっと待っていたのに」と響子がいった時

「それではここで、内閣総理大臣より、ご挨拶を賜ります」という司会の言葉で、会場が一段とざわめいた。

拍手が湧き起こった。澁澤がなにかいった。声がかすれていた。よく聞こえなかった。

「だから」といって澁澤は薄い水割りをごくんと飲みほした。酒を飲むというより、喉の乾きをいやすように。

「ここを出ようといっている。もう少し静かなところに」

自分の提案に響子がどんな反応を示すか不安だというように、澁澤は壇上の総理大臣に目をやった。

ここで断れば、響子の顔も見ないでそのまま人込みに消えるつもりなのだろう。

ここは、はぐらかしてはいけない。

こういう場ではぐらかしてしまうのが、わたしの一番いけない性格なのだからと響子は思った。

「出ましょ。日比谷シティの隣に静かなお店があるわ」

三年間のお互いの感情の透き間を埋めつくすには、一軒目のアルコールの量ではたりなかった。

日比谷から、澁澤の事務所の近くの溜池の店に行き、そして、キャピトルホテルのバーラウンジに行った。

その日二本目のワインが空になった時澁澤は「ここのホテルを押さえた」といって、じっと響子を見すえた。

パーティ会場のように視線を外そうとはしなかった。

この男は真剣だと知った時、なんだか自然に汗ばんでいた。小娘のようにおどおどと。

響子は手の平で額の髪の生え際を押さえた。うっすらと浮いた額の汗を澁澤に悟られたくなかった。

脇の下をすうっと汗が流れ落ちた。喉が乾いた。ワインを思わず飲んでしまう。冷たさに歯がうずく。

どうなんだという目を澁澤がした。煙草を吸いたかった。冷静な気持ちで「いいわ」といいたかった。

「煙草を一本もらえます」といって、澁澤の右横に置いてあるキャメルに手を伸ばそうとした。

その時、酔いは急激に醒めていった。響子はそのまま視線を落とすと、自分のパールのマニュキアの指先を見つめ続けた。

「どうなんだ」と澁澤がじれて聞いた。

老人が作ってくれた三年ぶりの出会い。待っていたといった響子の嘘のない真実。

澁澤は自信をもって、誘いの矢を投げかけた。外れることのない矢。それがいま、外れようとしている。

響子はだまって首を横に振った。澁澤の表情に怒りが混じった。もう一度強く首を振った。

「どうしてなんだよ、君って人は」というと澁澤はそのまま立ち上がった。

響子はずっとバーラウンジに座り続けながら、

コルトレーンの「ユー・ドントノー・ホワット・ラブ・イズ」のフレーズを頭の中で追った。

そして煙草を吸うのはもうやめようと決心した。

突然、笑い声が起こり、頭の中の曲は「ホワッツ・ニュー」に変わった。

なんなのだろうこの笑いは。

眼に痛みを覚えながら、無理矢理、開いた。視力が落ちたのだろうか。

周りが薄暗く、時々、原色の光が差し込む。また笑い声が起きる。

視力が落ちたと思ったのは、飛行機で映画がいつの間にか上映されていたからだ。

こんなにみんなが声をたてて笑うのだから、きっとコメディなのだろう。

そして、夢の中で聞いていたコルトレーンは、響子のイヤホーンから流れてくる飛行機のミュージックサービスだった。

時差ボケにならないためにはもう少し眠っておきたかった。響子は白ワインを頼んだ。

ワインをグラスに注いで、透かして見る。

映画の画面が変わるたびに、青くなったり、赤く染まったりして、なんだか落ち着かない感じだった。

このワインはいい味ではないかもしれない。

一口、口にした。その通りだった。コクもうまみもどこかにいってしまっていた。いっこうに酔いは回ってこない。

眠ろうとするがその後はほとんど眠れなかった。

ようやく飛行機はJ・F・ケネディ空港への着陸態勢をとった。

スチワーデスがシートベルトの着用と座席の背が立っているかの確認をしながら、響子のところまでやってきた。

「失礼ですが、お客様は木下様でいらっしゃいますか?」

響子がうなずくと「一階のお席のお客様よりのメッセージでございます」といってJALの封筒を差し出した。

「エセックス・ハウス三週間泊」と短いメッセージが書かれていた。

「てにをは」をすべて省略した文面に澁澤の感情が現れているようだった。

長い文章にすれば、その怒りが入ることを澁澤は恐れたのだろう。必要最小限のことしか書かれていない。

これ以上自分が傷つくことを澁澤は恐れていると響子は思った。

空港に降りてからも、澁澤のことだから、顔を会わせないようにすることだろう。これが最後のコンタクトだと思った。

高度がぐんぐん下がり、気圧で耳が痛い。

エセックス・ハウス。

場所も名前も知らなかった。でも、名前をどこかで聞いた記憶が微かにある。どこで聞いたのだろう。

飛行機が右に大きく傾いた。窓に斜めになったマンハッタンが飛び込んできた。

これから戦争が始まる。女一人がこの街で仕事を解決するには大変なエネルギーがいる。澁澤どころではない。

今度のアメリカ側の弁理士も得意先も初対面なのだ。

響子は澁澤のメモを小さくちぎると、前のダスト袋の中へ封筒と一緒に差し込んだ。

同時に何機もの飛行機が入港したのだろう。入国審査所は長い列だった。バッゲ

ージクライムにはすでに響子の荷物が出ていた。それを急いでピックアップすると税関を通った。

いつものようにリムジンの暴力白タクの運転手が何人も響子を取り巻いた。どこまでいく。安くしておくから乗らないか。

もう響子の大きな荷物に手をかけ、リムジンに乗せてしまおうとする者さえいる。

「ノー。タクシーに乗るからわたしの荷物には触らないで」

響子は大声で叫びながら、タクシー乗り場まで急ぐ。

女一人が生きていくためには、思い悩んでいる暇などこの街にはない。自分自身を守るためにもう必死だった。

まだ十月の半ばだというのに、タクシー乗り場には、寒い突風が吹き荒れていた。

今年のニューヨークの秋は早いのだろうか。列はなかなか前へ進まない。

ようやくタクシーに乗り込み、「パークサイドウエスト、六二、メイフラワーホテル」というと急に睡魔が襲ってきた。

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